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2016年01月06日 10:27 思考によって見られると世界は気持ち悪くなるなど4つ


思考によって見られると世界は気持ち悪くなる


目で見ているセカイの気持ち悪さ。正確には、観えている世界を言語(と概念)で記し、編み直したものを、世界そのものと誤認することの、多大なズレと気持ち悪さ。あたかも悪酔いして、醜いものを美しいと触れ回る狂気のような。狂気だ。

正しい言葉は、目で見ている以前のものを、言葉にするためにある。目で見ている以前のもの、脳経由の言葉で表現されていない世界のことを、《直観》という。端的に与えられているもの。

言葉は直観を表現すべきものだ。言葉によって編み直され、世界の大事な直観部分が脱け、まるで精巧に似せるほど胡散臭くなる贋物のような、まやかしの言葉による世界を、世界そのものだと勘違いしてはいけない。これは頻繁に起きる勘違いである。ああ。まったく、気持ち悪い。

こういった贋物世界を脳が編みそうになる時は、目は瞑っていたほうが全く良い。ジブンのノウに・言語に・言語が編み変えて見せている世界に、振り回されている(ことすら気付かない)情況が、あまりにも多すぎる。脳の中・目の前の世界ではなく、魂のまわりに直観として広がっている世界を、まずは言葉にすること。


メモ


…(略)…
この世界(=宇宙)は、かくて、(宇宙人や、人間や、一部の動物といった)主体というインターフェイスを数多もちいて、世界を「カタチと彩り」で溢れるものにする。

あたかも、光一色だけではつまらないから、様々な光の表現として、「絵」を描いてみるように。そうした、意欲的な遊び。

「絵」は――、つまり「カタチと彩り」は――、真理が具体という表象をおびた存在は――、この世界の顕れである。
「明るいだけの無地のキャンバス」よりも「奇麗な絵」に感情が昂ぶるのは、われわれが、「絵」を描くためにこの世界に作り出されたロボットであるためである。

わたしは同じ趣旨の文をもう何度書いたかも知れない。何度考えてもこの結論に到らざるを得ないのである。真理への思考は、この結論で止まる。すなわちここが、真理の意味、ということになろう。真理への快感を貪ることを望んでやまない思考は、この結論において、まるで一片の氷や一滴の水が大洋に溶け込むような満足と共に、おだやかな停止を迎える。

この停止は〈哲学〉なるゲームの終わりである。
また、一つ一つの〈物語〉のうちに、意味として宿るものである。
〈神々〉にとっては、みずからいつでも何度でも繰り返す、戯(あそ)びの一つである。

みずから奇麗な絵であること。奇麗な絵の一部であること。
ただ奇麗な存在であるだけのもの。それが神々である。
…(略)…


メモ


 160905-01

 人間という器械(インターフェイス)に一般に想定された視野を、「遥かに、遥かに、超えた視野」を、視界に収めたときの反応。それは名付けるならば【聖快】とでもいうもの。聖性と快感とが同一のものとして湧き起こる感動である。
 聖性の津波による快感。「これは【触れてはならないほど気持ちがよいものだ】」という、強烈な畏れと寒け。泥流や熱波のような快感でありながら、凍えるように寒く、視点と視野は一寸もブレることがない。たとえば、ひとつの渦があるとすれば、渦の「真の中心」にあるゆえに、全く動くことがない「軸」。
 人間(インターフェイス)に一般に想定されている許容量をオーバーする景色を観ると、聖性と快感が等量ずつ編み込まれたような認識が、膨大な量をもって襲来する。
 しかし君は眉も動かさずにそれに耐える。そのとき、君は、「あらゆる存在」の地平から浮上した者であって――いわばこの宇宙の「軸」だからである。


 160905-02

 ……(略)……
 わかるかい君、つまり、君が最も愉しいと思う冒険・世界・物語は……【君が創ったのだよ】。
 君は君よりも大きなものとなり――この宇宙より大きなものとなり――君が戯(あそ)ぶ最高の冒険世界(ステージ)を、【自分で】創ったのだ。
 これが真の意味での【自分】――人間の使う「自分」という言葉とは、完璧に意味の違う【自分】である。
【自分】とは【君のことであり、君を遥かに、遥かに、超えるもののことである】。その二重の意味を含むことを知るべし。


動きを止める


 自分の「器械」(インターフェイス)の機軸が非物質領域に元から刺さっているのは明らかだ。
 晩夏。物質の流れが生成から滅びへ転流する季節。流れが反転する音が、鮮やかにゴオゴオと聴こえるかのようだ。

 私は、後ろ手に閉めた扉の向こうに夏と春を置いて、
 今、この季節からが、物語の季節である。物質が滅ぶときこそ、非物質が煌きだす。すなわち、物語どもが、活き活きと芽吹くのである。
 器械を使った物語でなしに、より非物質の色濃い物語たちが。私は、この物語たちを愛する。

 秋になると私の器械は活き活きとしてくる。もともとの引き込もり性能が十全に発露され、やっと本来の座標に固定されるのである。気候に由来する激しい分子運動によってぶれることがなくなり、私にとって本来的な、鎮静状態に固定されるのを感じる。
 私の器械の特質は、「器械の動きを止めるために器械の動作がある」特質である。この器械が全力で動作すると、宇宙と比べても引けを取らない美しさの、「引き込もりの姿勢」を呈することとなる。

(一定以上に)完成された「引き込もり」は、「独つ」と同じである、と思う。
 ひ弱な一個であり、かつ、完全な全部であること。
 そのありさまは、原子や、宇宙と同じだ。

 器械を文字どおりに動作させ、宇宙の完全性たる「独つ」に行く道があれば、
 器械を「動作させない」動作に奉仕させることで、「独つ」に到る方法もまたある。

 自身の器械の性質に合った方法を見つけることである。

 私という器械においては、「引き込もり」の素晴らしさを言葉をもって伝えていきたいと思う。
 

 ――非物質領域に関する言説でも、「あいつはアレだからな」「やつはあの派閥だから」みたいな一言で済ませる集団や風潮は、ままあると思うのだが、実は上のように言葉で厳密に表しておくことって、とても価値がある仕事だと思うのですけどね。


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