2012年08月03日 11:35 現象における美など3つ

現象における美

 現象として美しいもの、それは確かに美しいが、現象であるという最大の欠点を持つ。具体や細部といったものは、あればあるほど、美しさを相対的に小さくする。
 まして、現象であるがゆえの美しさは、同類である現象を楽しませるに過ぎない。すなわち「わたしの心身」という小さな箱へと焦点を結ぶための、屈折され矮小化された美に過ぎない。たとえば、具体物Cの美しさが単にCの部分である具体物Aと具体物Bの論理的結合のみにある場合、Cの美しさは本質的ではない。
 現象のみにおいて美しいものほど、真の美しさを含む度合いは小さくなる。ときには真の美しさから全く遠ざかるものもある。われわれがカバやトドの美形の個体を識別しないように、われわれよりも明晰な審美眼を持つ存在にとっては、われわれの顔面や服装は審美の対象ではない。
 現象内において完結性をもつ美しさは格の低いものである。それは、人間という管に投じられた食物が論理的に糞として排出されても、糞を美しいとは言わないことと同じである。
 現象という欠点を免れるのは、端的に真の美しさであることだけである。

男の楽しみ

 男は、その傾向として、「中途半端は最悪である」ことを鮮やかに示す例であると思う。
 というのは、男は知性において動物的認識に徹することから距離をとった一方、人間的認識においても、さほど透徹した段階に達しないからである。
 男は、なかなか、子供や女や老人のようには肌的に世界を楽しめない。といって、理性機能においても、世界をなかなか正確に認識できず、世界と癒着した存在として世界認識する。このため、「常識」や「普通」、せいぜい「少数のイデオロギー」といったレベルの粗悪な銅像を、世界の神として立てるに至る。そこで、男が産出する世界認識とは、金や地位や収益といった、強引なデジタル処理を施し数値へと変換した「いびつな美」なのであり、これらを競い合って求める行為は、男が価値を認めている点のほかには価値がない。
 なぜなら、子供や女や老人にはもっと楽しいことがたくさんあり、世界がありのままにあることが既に楽しいために、奇怪な形のプラモデルをせっせと組み立てる男の狭い集まりには興味がないからである。子供や女が一般にニュースや政治や経済(ただし家計は別)を敬遠するのは、それらの不恰好な実質を肌で察しているからである。男は、放っておいても、子供や女の住み処や老人ホームを、せっせと競って建設してくれる。男は、子供や女や老人にインフラを提供する労働者であり、はっきり言うと奴隷であるが、自らを王様だと信じ込んでいるところに、救いのなさがあり、救いがある。

知性

 世界を楽しく生きることに知性は要らない。積極的に不要なのだ。
 それは覚醒した脳で夢を見ることと同じように愚かなことだ。まどろみの中で見るゆえに楽しいのが夢であって、まどろまない夢は、乳児期の使い古したおもちゃを成人してから眺めるようなことだ。
 知性を用いて現象界を歩くことは、退屈きわまりない無限の遠足である。それは、独力で辞書を編纂できる者が「あいうえお」の書き取りを一生やることにも似ている。
 それでも、知性というのは、われわれへのこの上ない贈り物なのである。なぜなら、知性によってわれわれは現象界の実際の姿を知るという苦汁をあじわうが、それと同等に、知性のきらめきが現象界に反射する光景をみるときの感謝も、深いものだからである。そのとき、われわれは現象のいたるところに本質が滲み出ていることを認識する。また、われわれの内奥も本質そのものであることを認識するであろう。

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