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2013年01月25日 11:40 世界と「大人」など2つ

世界と「大人」

 もしも現実世界であたりまえに感じる情報の多さや、情報の具体性の豊かさや、溢れるばかりの新奇性が、一様に陰鬱さと悲惨さと焦りで覆われているのではなく、無邪気な喜びで覆われていたら、それを天国以外の何と言えようか。
 しかし天国は、あたりまえの感性を持った者ならば子供時代にしか存在していなかった事を振り返ることができよう。誰しもが経験するあの信じられない子供時代は、長い夜のうちの一時の夢のようであった。

 子供時代は現象の発露の時代であった。
 青年は、現象への恐怖の時代である。
 老人は、現象への諦めの時代であろう。
 老年を経てわれわれは賢人へと至るだろう。
 賢人は、自らを含む現象どもを、ただ観ることのできる者である。

 上のどれにも当て嵌まらない種族として「大人」と言われるものがある。
 それは、人間独特と言うより、きわめて強く生物的な側面へと傾いた存在態である。ゆえに、大人という種族を研究する際は、社会学や生物学といった観察科学との相性が良い。
 大人とは、現象自体に同化している者である。
 それは子供の無邪気さや集中を全く欠き、散漫とし、同調し、「集団としての主体」に自分を同一化している。
 大人とは、等質の細胞が結合してエネルギーの融通をしやすくした「集合的生命体」のような区分である。
 ある一人の大人は、この集合的生命体の、忠実なる一部分である。
 社会学的に言えば、個々が結合することにより、個々のエネルギーの消費を押さえ、結果的には個々の機能の持続と、安定的生存の確保を実現しているのである。この集合的生命体は、実質的に経済効率的である。おそらく世の経済活動というものも、規模、効率、多数への等質な分配、等の機能を持つことからみて、大人たちの集合的生命体としての存在態と無関係ではないだろう。
 この集合的生命体は、現象の意味である「存続」をできるだけ長く持続させることを第一の目的としている。集合することにより簡易なレベルでのエネルギーの融通と伝達を実現させ、個々のエネルギーが存続に役立たない方向へ空費され消耗することを抑えている。
 したがってもちろん、各個の生命体は、自分のエネルギーの質を重視する存在ではなく、集団の量としてのエネルギーを行動の第一の秤とする。
 集団の目的が存続であるゆえに、集団内部で融通する言語は平準化され、制限されている。存続に寄与する言語は正義であり、反する言語はなぜか悪である。
 たとえば、現在の日本社会という集団では、その最大の言語は「貨幣」「法律」等々である。

 集団的生命体が個々の質ではなく全体の量を第一の基準とすることから、この生命体の特徴は散逸であり、乱雑と不統一であり、不調和や闘いや騒乱に満ちたものである。すなわち集合的生命体の内側は、低位のエネルギーの現象によって広く充たされている。
 このような集合的生命体として、ある社会や集団を見た場合、目を覆うような不調和や争いも、すでに内部に織り込まれている反応とみることができる。不調和や闘争は、細胞集団の中で白血球が炎症反応を起こしているようなもので、集合的生命体にとっては、何も問題が起こっているわけではない。むしろ無ければ困るような正常な反応とすら見ることができる。
 この生命体は、自律的な個人を、常に排撃する。自律的な個人は、生命体にとっては主張の強すぎる癌細胞に似ている。したがって生命体は免疫力を傾けてこの細胞を消しにかかる。量としてのエネルギーを余すところなく注ぎ、この一個の細胞を四方八方より攻撃する。
 結果、ほとんどが消され、または生命体に同化されるに至る。
 しかし、生命体の存続に支障がない例外的な数は残される。単に存続するだけの生命体は、環境の変化によってたやすく滅びる可能性があるからだ。遺伝的多様性という視点からみることもできるだろう。
 したがって例外という突然変異の芽を残しておく。
 この例外は、変化した環境に適応できるかもしれない存在である。もし例外が適応するのを確認したならば、生命体は例外を節操なく取り込み、環境に適応したものへとおのれを進化させるであろう。集合的生命体には節操は無い……自然が危機に瀕するとメス化するのはこのためである(笑)。高い生存条件を要する生物種は早く絶滅する。特定の食草しか食べない蝶よりも、多くの種類の葉を食べられる蛾のほうがタフである。
 集合的生命体は現象界の広い面積を占める。つまり、散逸と不調和を特徴とする現象が、現象界には満ちている。ゆえに現象界は総じて低位の世界と言ってよい。

 なお、低位・高位とは、優劣ではない。
 それは、現象のあり方の違い、もっときわどい表現でいえば、切り口(≒見え方)の違いに過ぎない。
 現象には、絶対的な優劣も正義や悪も存在していない。低位から高位までの現象が現象界にはある、というだけである。

 なお、芸術の世界は現象界と一部を共有しているが、現象界とは位相が違うものと思われる。これはまた別に述べる。

本質との縁

 大人が現実世界でふつうに暮らせるのは、本質に縁が無い状況だからである可能性がある。
 本質に少しでも触れれば、ふつうの生活を楽しむ以上にやらねばならないことがあると解ってしまう場合がある。

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