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2021年05月18日 14:42 とある神社に行った時の恐怖体験(霊など苦手な人は閲覧注意)など3つ



インターネット黎明期


 ネットが大量のチラシと変わらない空気になった現在だと、過疎SNSに行くとか、なんJをみるとか、玉石の玉の部分を決め打ちする見方をしないと爽快よりも疲労が上回るのは再三主張している。
 気楽に眺めて爽快というのがネットの黎明期やった。2000年前後の数年。ガチ勢さんにとっては90年代がすでにそう。
 だからネットサーフィンなんて言葉もあった。
 今は瀝青の上をサーフィンしてる感じ。
 だから自分はやってない。検索もごおgぇは使ってないのも述べた。
 みんなうんざりしてるんだろう。ごおgぇに載ってる店とかには行きたくないと感じている人も周りに多い。でもほぼ全部の店がごおgぇに載ってるからな。
 時代を逆手にとって、たとえば自営業の人の仕事も、ネットを使わないでやるのってどうかしら。HPも作らない。情報源は自分と接した人の一次情報だけ。これが普遍的インターネットじゃないかしら。
 これのメリットはたくさんある。いちばんは自然法則の流れにもっとも乗りやすいこと。
 このメリットの特徴は、「『メリット』とか『経済性』の念が兆すと、メリットだと感じられなくなる」こと。だから「普通に仕事」する人には最初から仕事のビジョンに入って来ない。
 大衆化したネットの急所が草の根、という時期はもう少し続くだろう。大衆化したネットは、法律に非常に似ている気がする。だからなのか、大衆化につれてネット関連の法律も、たくさんできている。



個体の性質


 自分も、十五~十六歳から(当時は漠然とだけれども)真理をめざしたけれども、「私」として、つまり個体として、真理に到達したい・できると思っていた時期があった。
 それは特に二十四~二十五歳の頃に強まった。以降、それまでのように思索や物語の形だけで真理を探究するにとどまらず、このように観察を記述する文を(哲学の空気をもった文を)書き始めたわけでもある。

 個体で真理をめざす時期には、特有のよさもある。
 それは、個体の世界が、つまり記憶が、きわめて強く感情と結び付くので、よい想い出が、かけがえのない美しさで観えるということである。
 個体における探求は、この記憶の頂上の一点の上澄み、個体の最良の感情と結び付いた記憶における美しさ、これのみにおいて真理の底と接している。この上澄みにほだされること、これも、個人にとっての、芸術のはじまりであるかもしれない。
 そして、あくまで、はじまりである。芸術を続ければ、いずれ個体を脱するフェーズや技法へ向く事になる。

 しかし、個体として(個人として)真理に到達することはない。これは事実なので、ないとここに明記しておく。
 またこれも事実だが、個体としてという意志こそが、つまり私こそが、真理に到達することを妨げる最大の力である。

 すなわち、私(思考と同一化している自分)が起動すると、まさにその時点での「私の発生」が、恒に此処に在る真理を見えなくするのである。
 このことに個体は納得しない。
 



とある神社に行った時の恐怖体験(霊など苦手な人は閲覧注意)(なお神社は直接関係ない)


 今も覚えているが、たぶん小学校2年の時、家族で或る神社に行った。
 そのときは、神社までの道は今のように舗装されていなくて、沿道にはいろいろな露店が今よりたくさん出ていた。

 その中に、占い屋? みたいな露店があった。
 店の前の黒いカンバンには、「この線が長い人はこう」みたいに、サンプルのように、手相がいくつも手描きにて書いてあって、手のいろいろな線について解説してあった。
 ふと、私の手に似ている図の解説を見たら、「腎臓の手術をする」と書かれていた。その時私は、「私は腎臓の手術をするんだ」「それは怖い、嫌だ」ということを(6~7歳なので、鮮明な言葉よりも、印象として感じることによって、)思った。
 果たして私は、中学一年あたりから部活等で疲れやすく、高校一年あたりから左の腰に痛みが出始め、腎臓が身体の弱い箇所となっている気がする。たまたまだろうか? 
 いや、これが「私の力」である、と思う。
 心理学的にいうと、潜在意識の力である。
 当時、自我がめざめはじめた、まだ素直な意識に、「私は腎臓の手術をすることになってしまう、それは嫌だ」ということが素直に落ちてしまったのである。たぶん、同じく露店を通り掛かった時に、「腎臓の手術をするなんて嫌だ」と思った人も、幾人も居たのだろう。
 そういう情報も含めて、私の体(潜在意識)が拾ったのではないかと、自分には思われる。
 
 こういう例は各人において枚挙に暇がない。
「整体」というものの創始者である野口晴哉は、患者の潜在意識にこうしたコトバをストンと落として治療する、ということを実に得意としていたという。肉体の情報を空恐ろしいまでに精細に、精確に読む、異常な能力である。能力と関連しているのか否か、野口は生まれつき、発声が不自由であったそうだ。

「腎臓の手術をする」「それは怖い」という認識はそれぞれ一個の表象である。つまり、はっきりいってしまえば、自分が思ったものではない。自分とは全く無関係な、いわば空中を漂っている各個の情報なのである。
 たとえば、過去や、遠く離れた場所の、誰かが思ったものであったりする。今回の場合、占い屋さんが、通り掛かる人を脅して店に寄らせる意図で絵を描いていたとしたら、占い屋さんの思念であるかもしれない。

 そればかりか、「私」は一個の表象であるし、私を中心とした表象の世界も、一個の表象なのである。
 だが、私にとっては、これらは無関係なものではなく、自分自身のことになるのである。それは次の仕組みによる。私の世界=脳の世界=潜在意識と顕在意識の世界、このレベルにおいては、潜在意識を通して私は統制されている。クラウドに繋げられた無数の私が、クラウドと同値の物である脳を通じて、認識を決定づけられているのである。

 もちろん根本では、本当は「腎臓の手術をする」「それは怖い」という認識は、自分と無関係ではない。
 というのは、自分(本質的主体)とは無関係なのだが、そうした認識を受け取る「私」を選んでいるのは、「私」よりもいわば深い処に居る、自分であるからである。どうして選んだかというと、それによってさまざまの観察や学びを得て、今しているように此処に書けたりする、そういう事をしたいと、自分があらかじめ思ったからなのである。

 きのう、その神社に行った。たぶん十五年ぶりくらいの訪問となった。とても穏やかで、神々しい場所であった。露店は昔よりもかなり減った。
 腎臓は現在回復に向かっている。

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