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2022年03月04日 14:03 幻想に苦しむなど4つ



小学校時の不可解な現象


小学生の時にまわりがこぞってJPOPを聴き始める現象って理解不能だったよな。恋とか教わってもいないのに理解できるわけねぇだろ。〇ね。

あと、端的にというか、唐突に、一人の人間が、ようは「私」が出て来て「私」の言葉を音楽に乗せだす所業がおぞましかったのである。当時は全く意味が分からなかった。「私」がまだ不分明な奴らが「私」に拒否感を覚えないわけないだろ。ワイ達は今迄フルーツを素のままでかぶりついてたんだよ。ポリ容器に入れてラップを掛けてダンボールに入れてくんなや。

サビの陶酔の頂点くらいでは「私」が消えることもたまにはあったけれども、「私」は引っ込んでろといわざるを得ないし、「私」の言う事に耳を貸さなければ音楽を聴けなくなる形態は苦痛だった。ということを、当時のワイは感じたのだと思う。

中学校でサイモン&ガーファンクルを聴いた時は、英語だったから、「私」の言っていることを無視できてよかった。



小惑星が落ちた夢


 きょうは東京に小惑星が立て続けに2つ落ちた夢を観た。セイブ線(西武線ではない)が走っているので東京だとは思う。
 ワイ達は夜、戸建ての窓から見ていた。
 遠目にも分かる真っ白にまばゆく光る丸い小惑星が落ちて来て、衝突した。その衝突音が凄かった。私の人生では聴いた事は無いが、自分はその音を、聞いたことがあった。少なくともこの夢において聞いた。←少なくとも以降の文は、脳世界に支配されている人向けの書き方であり、事実は前の文の方である。
 すぐ後に、やや小ぶり、といっても大きさ何十キロメートルありそうな2個めが落ちて来て、数百メートルくらいの石(破壊された地面の一部)がバーッと何個もまっすぐに飛んできた。(スローモーションに見える)
 避けなければと思い、家の内壁などを捜している時に目が覚めた。

 死ぬ時や、死にそうな時は、めちゃくちゃ怖がってる時と、「お、ワイが死ぬだけやな」と思っている時があるが、今回は後者だった。
 前者の時の方が、私とのつながりの度合いが高く、脳が稼働している率も高いから、後者のほうが脳から離れられて本質の度合いが高まるので、今回もぜひ死んでみたかったが、おそらく私の脳が反応して、個体の破滅の恐怖に引っ張られて覚めてしまったのだろう。残念だった。前に飛び込む処で、後ろに壊走するから、個体はあかんのよな!

 小惑星ってめちゃくちゃ速いんやで。だが、大きいから遅く移動してるように見えるんやが、それでも遅い中での速さがある。今(ウクライナ)流行りの核爆弾かとも思ったが、衝突音がすごい。私は核爆弾の炸裂や着弾を聞いたこともないので、核爆弾も今回みたいな音なのかもしらんね。

 ワイがすげー怖がって死んだ、または死んだと思われる夢には次がある。
・高さ2~3キロメートルある渓谷の上の道を歩いていて、その道の角度が80度くらいあるので、一度滑ると落ちるから、一度滑って落ちる
・湖の上に黒い靄の熊が表れて瞬時にワイに喰い付いてきて殺される
 等々がある。

 対して、「お、ワイ死ぬやん、やった!」という夢は、死んだ後に世界が変わるだけで、変わった世界の方に没頭して行ってしまうから、死んだ夢はほとんど思い出せないようである。

 わたしが思うに、肉体の死もこれと同じである。死の恐れ・個体、というものは、無いのであって、なぜなら個別の肉体をもつ(ように見える)生においても、私達は生きながらにして常に何度も死んでいるからである。
 事実を言えば「個体を失って死ぬのが怖いよー」と思考する個体が、突然発生しては消えているのである。

 つまり個体とは、全く夢なのだが、個体(脳)は脳を用いて、「個体の生が連続性や一貫性を持っている」という錯覚を生み出すから、その中に囚われると、私達が常に死んで新しく生まれている事実が分からなくなるのである。実際は死の方が生の母である。
 正確にいえば、死と生は同じ物であり、現象の側面から見ると二つの面を持つように見えるのである。

 小惑星(衝突)観光は愉しかった。



観照の実践


ショーペンハウアーが「世界は苦しみだ、救いようがない」と言い続けて、80歳近くまで活き活きと人生を全うしたのは、まさに日常的に観照を実践したからでもあるだろう。同じ空気を持つ者は生老病死を唱えた仏陀がすぐに思い当たる。



幻想に苦しむ


 心身を持って生きる幻想が表れている一時(ひととき)には、重さや苦しみが消えることはない。重さをどけよう、苦しみを消そうと、もがく事が心身の最大の苦しみで、それに気づかないうちは、苦しみは続く。
 重さや、苦しみを、解消する唯一の道は芸術である。言い換えれば、重さや、苦しみの中へ、徹底的に沈み続ける事である。これは自分にとって、哲学的な観想ないし耽溺として(主観と客観が別れている観察とは距離感や空間が異なる)、自然に身に着いていた技術であった。
 おそらく、覚者といわれるひとびとも、重さや、苦しみについて、同じ事を言ったであろう。
 たいていの場合、重さや苦しみは、苦しみではない。むしろ、(芸術の)観照のもとにあっては、芸術のモチーフであり、光を放つ物である。全てがあるがままであると、自分自身によって認める事が、芸術の始まりである。
もちろん、一時(ひととき)じたいが幻想である。
 幻想の中の物は全部遊びである。


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