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2014年03月07日 13:31 物語など2つ


議論


「正しさ」を議論するのはニンゲンだけだ。
「正しさ」を議論しなくても、自然界の動植物が支障なく生きられているのはなぜか? 山や川がきのうと同じように存在し流れているのはなぜか? それは自然ははじめから生きるうえでの解答を有しているからだ。

それが、正しさの真なる階層であって、この階層に到達しているニンゲンは多くはない。真なる正しさは、夏の蝉の声が音量は大きくとも耳には何処か快いように、うるさくないものだ。ましてや議論やディベートなどしているニンゲンの中には正しさは皆無と言ってもいいだろう。
争いは同レベルの存在のあいだでしか起こらないといわれるが、議論も同じだ。「正しさ」の偽の看板をかけた自分の感情を押し付けたいだけだ。自分の言うことを聞いてほしいという甘え・我がままなのだ。ニンゲンは「正しさ」の議論にかこつけてちっぽけな自尊心や虚栄心を満足させている。そして他人や自分や自然を、凄惨なほど傷つけたり壊したりしている。

このようなニンゲン的階層の構造を把握しないと、そこから抜け出すこともできず、成長も見込めない。


物語

 物語、すなわち、典型的な高位存在は、永遠性に通じている。永遠性とは、言い換えれば、真理、世界の事実、のことである。その永遠性を、こちらのセカイに運ぶことが、媒体たる物語の役割だと言える。物語とは、媒体であり、永遠性と多重的に存在する様式をとっており、極めて限定的なバランスの上に成り立つものである。ただし、それでもやはり、物語は、永遠性そのものではない。ゆえに、物語が終わったならば、物語やキャラクターは省みられなくなるのが当然である。この状態をオワコンと言う。オワコンは物語の宿命であるし、証明のようなものである。恥じることではない。

 だいじなのは、その物語によって、鑑賞した主体が幸福だったということであって、物語は主体に幸福を与え、去っていくものである。
 物語は惜しみなく与え、自らを捨てる。それは、内容が悲劇か否かに関わらず、いかなる物語もが持つ、メタ的な悲劇性である。
 主体が愉しむこと。物語にまみれて、歓喜と感謝を叫ぶこと。
 主体を永遠性の淵に泳がせること。
 それがただ単に物語の役割だ。
 永遠性のトリップを抜け、現実に還った主体が、終わった物語の悲劇を嘆くことは、物語が感知するところではない。物語は、惜しまれることを望んではいない。

 また、逆説的な事実はこうだ。物語によって、永遠性との睦まじさを深め、現実のみならず高位の帯域への知覚の技能を鍛錬し、自在に使用できるに至った者は、驚嘆すべき特典に与ることができる。
 それは、終わった物語にふたたび分け入り、永遠性を「初めての鑑賞の時と同じように」、または「初めての鑑賞の時よりも素晴らしく」、掴み取ることも可能であるということだ。
 永遠性の世界とは、あらゆる素晴らしい可能性が、等しく完璧に実現している、万能なる淵源だからである。――なんなら、この能力を身に付け、とにかく一度、やってみるとよい。疑いを持つ者は、一瞬にして疑いが晴れるだろう。
 この能力を持つ者には、もちろん、オワコンというものは無い。
 世界には物語だけが、輝く対象だけが、あるのだ。
 通常、鑑賞者は、永遠性の世界より流れてくる物語を、現実性の世界において鑑賞するというやり方だけをするものかもしれない。
 しかしながら、主体の側が物語に浸ることを通して永遠性の側にトリップするという鑑賞もあるのである。
 この鑑賞法は、もちろん、前者に比べてエネルギーを使うし、技術を要するものである。現実性という相対的低位帯域から、高位帯域へと遡上していく方法なのだから、エネルギーが要るのは当然のことだと思う。
 
 だがもはや、永遠性の輝きの世界に囚われた者は、辛く長い訓練を要するとしても、後者の鑑賞方法をとらないことはできない。
 現世において永遠性の輝きと睦まじくなった、一種の怪物のごとき者は、物語が構造的に持つ、必ずオワルという悲劇ごときに、構っている暇はない。この悲劇は確かに一種の悲劇ではある。だが、そこまで上質の悲劇であるとは、お世辞にも言えない。ましてや、物語の奥なる永遠性に比べれば、言うまでもない。RPGの初期に出会うモンスターを、最後の大魔王と、比べるようなものである。

 物語は永遠性そのものではない――現世の相(現実世界という帯域)においては、たしかにそうである。
 一方、それを体験している鑑賞者にとっては、物語とは、永遠性そのものである。このこともやはり事実に他ならない。この言明は、あちら側から物語を観たときの事実である。

 このように、おそらく、世界というものは、矛盾する二つの命題によって記述されなければならない。 それは、世界の事実からの記述と、世界の事実への記述という、二つの方向の命題によって為される。
 矛盾によって世界をはじめて充分に表せるということが、その記述が世界を自然に表現できたことの指標になるのである。

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