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2021年04月23日 14:40 「今」、私は幻影を見ているなど2つ


「今」、私は幻影を見ている


 今が認識の基点である。
 時間を取り入れた言い方をすれば、起点でもある。

 本当は、実際は、認識というものには今しかない。認識は一種類である。
 
 だから、人が、未来があるとか過去があるという世界観と、未来への不安や過去への後悔に囚われることが多いのは、「認識の仕組みとしては正常だが、認識の質的には誤謬」である。
 どういうことかというと、認識には今しかないので、誰もが今を認識している。だから認識の仕組みは正常に働いている。
 なお、いつもそうだが、下はあくまでも個人的見解である。


 しかし生理学的にいうと(臨床的にいうと)、その認識している今において、脳の決まったルートを使っているから、たえず今において海馬内の記憶を参照している。
 海馬内の記憶は、人類が古代から累積している不安・恐怖の感情と、その人の脳内の表象とが結び付いた、ネガティブな記憶である。だから海馬の記憶には時間があり、過去や未来がある。
 それは「今の認識において見ている幻想の過去や未来世界」である。
 これはまた人間の集合意識とも言い換えることができる。
 自我の世界とも言い換えられる。

 人間の認識は、ただ今だけであるが、そのとき、脳の定型ルートに依ると、過去と未来に縛られる共通の自我世界に繋がる、ということである。
 その世界は「今において見ている幻影」である。
 その中に居ると「今」というものだけを、想い出せず、実感できなくなる、幻影である。


 もちろん、「定型ルートでない認識をしよう」と思いながら認識してはいけない。
 それはいつかに述べた『からっぽからっぽ』である。(笑) それだと幻影につながってしまうかもしれません。

 要は、人は誰でも、いちばん調子がいいときは、仕組み的にも質的にも正常な認識をしています。
 自然な認識を働かせようというのじゃあなく、自然な認識が働いているという状況。そして、その状況は、ほんらい、いちばん自然な状況なので、負担もなく、最も楽な認識でもあるのだが、われわれは脳を崇拝させられて、集合意識と癒着させられて、そちらが自然だという「矯正」や「教育」を受けてしまったので、まさに忙しく使っている脳の中で、自然と不自然が逆転してしまっていて、自然な認識には多大な労力や負担がかかる(と脳は感じてしまう)のです。

 まず、思考にとらわれているとき、それが不自然であると気づくこと。
 というのは、思うに、調子のいいときって、思考を自然に流せているからね。

 とらわれて延々と思考しないということ。これが具体的には大事になってくる。
 方法論は世の中にもいろいろある。


 

記憶の錯覚性

 ここでは、上の記事の『個体にとっては無』に関連する、派生的な錯覚について付記する。記事は特に読む必要はない。

 こうした錯覚は、細分化していくと増えていくが、気が向けば書くという感じでいく。
 ここでも、「私」のカギカッコは省略する。

 私のやることは全てが重く、本質(的主体)から観降ろせば、全部うまくいっていない。とはいえ、私の段階であえてその重さからさまざまなことを学んでいるということは、確実に言える。

 表象の世界が実在しているという錯覚からは、記憶が実在であるという錯覚も派生する。
 記憶はわたしではなく、私(の記憶)である。
 すでに述べたように、私は実在ではない。
 ゆえに記憶は実在ではない。

 記憶が実在ではないとは、記憶は私であって、わたしではない、ということである。
 記憶は、意志であり、「個体(※)において何かをしたい」(※個体も表象である)という情報の集まりである。

 記憶は必ず、「こうあるべき」「これが心地よい」「こうじゃなきゃやだ」といった「個体の感情的傾向」を有している。さまざまの記憶・思い出を想起すると、懐かしさや忌避感などの感情が必ずついてくることに気付くであろう。それはつまり、私が記憶の主体であること、個体の意志において表象を見ているということである。

 ところで、個体・私は錯覚なのだから、記憶の参照という行為もまた、全面的に錯覚である。
 私も、記憶も、どちらも実在しないのだが、記憶を見る時には私が、私が居る時には記憶がある。両者は互いの条件のようなものである、とも言えるし、実のところ同じものであるとも言えるのである。

 私とは、ここでは記憶とは、本質的主体が個体的意志という派生現象において、その派生現象に捉えられてしまっている状態である。いいかえれば、当然、非本質的主体である。

 これは、わたしが記憶を観ているのではなく、記憶(私)が記憶を見ている状態である。ゆえに、私は、記憶の中をグルグル回り、個人的意志・個人的志向からいつまでも脱け出せない。
 本質的認識の融通無碍さと、非本質的認識の重さとの違いは、この点に由来する。
 記憶が記憶を見ていると、「特定のコレでなければならない」という思考から逃れられない。
 わたしが記憶を観ているのなら、「何でもいい」「何でも最高」となる。

 私が賢しさを増すと(脳が成熟の度を高めると)、記憶はその人の思考の型枠にまで拡大する。
「AならばB、それならばC、さらに……(略)……したがって私が求める理想的X」といった、思考の抽象的な型枠までも、単なる記憶の参照である。
 抽象的な思考の型枠も、一個の表象なのである。
 表象を人格的な私や思考に仕立てるという処理を、脳(など)は行うが、行っている者じしんが、そのことに気付かない特徴をもつ。
 上のようにして、ついにXが得られると、本人は一時的に満足するが、そもそも記憶の参照であって、実体は私の感情的欲求にすぎない。
 だからすぐにまた、私の苦しさが襲ってくる。自分の思考に自負を持っている「知的な人」はこの罠に嵌りやすい。

 こうした、記憶を見る現象を回避するには、記憶がわたしではなく錯覚であると感得することも有効になってくるのかもしれない。

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