2013年01月06日 05:41 孤独など3つ

言語と二元論

二元論は言語によって生じている。対立する二項は、セカイの自然な景色においては、本来独立で考えることはできない。対立するかにみえるすべてのものは、相対関係であったり、部分と全体の関係であったり、同一のものの別の呼び名であったりする(たとえばバットはスポーツにおいては正当な用具の性質をもつが、暴動においては暴力や悪を体現する用具の性質をもつ)。
言語は、本来二項対立が存在していないという自然の法則を、性質的に、または故意に破る。たとえば「正義」や「神」と言う時、それが独立して存在しているかのような錯覚を与える。そしてその錯覚は、言語の範囲においては、錯覚ではなく事実として扱われうる。

このことを知った上で言語を悪用する者は、言語を流布することによって人を惑わすことができる。自らの作り出した言語のマトリックスに人間達を閉じ込めることができるのだ。自然から乖離した低位なセカイに人間達を閉じ込めるだろう。「勝ち組」と言えば「負け組」が生じ、「不況」と言えば「好況」を目指すべきと惑わされる。

しかし、もっとも基礎的かつ大切なことは、ものごとをありのままに観ることであり、観る能力なのである。それができれば誤った言語どもに左右されることはないであろう。言語を悪用する下劣な神官のような存在に惑わされてはならない。

多くの人間たちが、言語を操っているつもりで、実は神官達の言語の中で泳がされていると思われる。「セカイの一部」や「あるセカイ」といった光景を独立的に存在させるという、言語の恐るべき力を知れば、もはや日常的に軽々しく言葉を口にできないだろう。
言語能力に自信がある者でさえ、言葉を使う作業と同じくらい、言葉を選ぶ作業に頭を悩ませるものである。言語能力が未熟な者においては、そのセカイは誤った言葉だけで溢れており、ほとんど混沌としていると言ってもいいのである。

本質を知ろうとすること

このセカイの事実を、何となく知るのではなく、詳しく知りたいのだ。事実の奥、より根本にあるものの意味までを知りたいのである。すなわち、事実である限りにおいて、最奥の階層まで調べ尽くしたいのだ。セカイの事実を知ることの喜びはわたしにとって最も大きい。
どんなに現象として永く存在したとしても、現象を満足させる多くの物を持ったとしても、知ることという実体の前では、紙に描かれた絵や幻燈のようなものにすぎない。それらはいかに絢爛であっても、詰まるとこころは徒花の群にすぎぬ。ならば散りゆく景色が最も美しく思えるのも無理はないであろう。繚乱たる花弁が風に吹かれて一斉に散り動く海のようなさまを想像してみよ。……現象の意味は存在と消滅なのである。『滅びこそわが喜び。死にゆく者こそ美しい』のだ。大魔王の魅力はこの一言に端的にあると言ってもいいだろう。
ところで、音楽は少なくとも、最も単純な、現象世界の実現である。それは存在と消滅を他の現象と同等に雄弁に表現し、かつ他の現象よりも簡潔に表現している。

孤独

孤独?
孤独ですらないのだ。
わたしは自分自身からも背かれている。

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(訳)
現象セカイでは人間(現象)の孤独という事は問題とされる。孤独とは、自分という現象が他の現象の中で孤立していることの認識を意味する。
ところが、わたしは、自分という現象を全体的な不信として認識している。
ゆえに、わたしは孤独という問題を非常に感じるのが難しい。実際、感じそうになく、感じる気もない。馬鹿馬鹿しいし大変だ。ありふれていてファーストフード的だ。孤独(等々の現象問題)はポピュラーすぎるのである。


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