2013年01月12日 15:01 本質と現象

 本質は、それが現象として現れる時、「確定していない現象」という面をもつ。このニュアンスは分かりにくいが、オワコンの真(ま)反対と思えばよいと思う。現象化しつつある本質とは、現象界に存在しているどの現象でもない物の性質を備える。
 たとえば芸術作品(作品とは、現象である)は「確定していない現象」として現れるが、現れると現象として固定される。つまりオワコン化の道を辿ることを免れない。
 芸術作品は、現象と本質との境界的存在である。
 芸術作品の中では、抽象度のもっとも高い、音楽という方法が、他の種類の芸術作品と比べ、より本質的である。
 たとえば、本質を表している点では、音楽も小説も同じである。しかし、小説という芸術は音楽よりも現象を多く射程にしているため、一言でいって現象向きである。いいかえれば(今の)人間、人類にしか通用しない。植物は音楽を聴かせるとリラックスするそうだが、小説を読み聞かせて同じ効果があるかどうかは分からない。あるとしても、読み手の熱心な読み方の波長が好影響を与えている可能性もある。ただ、事実として、小説が「人類には」強烈な印象を与え得ることは確かである。
 この論考を突き詰めると、「現象は、人類用の、『本質の覗き穴』である」という仮説が導かれるように思う。現象は人類用の、本質をかいまみるテーマパークなのであるが、なぜこのテーマパークが現象という物であるのかは解明されない。
「人類用のテーマパークが存在する。それは現象(界)である」ということは言える。だが、そこまでである。
 この考えでは、現象(界)の「設計図、成り立ち」はわれわれに開示されない。しかし、現象(界)の「意味」は、「本質を垣間見るテーマパークである」ことによって保たれる。

 一方、ありふれた説明に、「どうして世界があるのかは解らない」というものがある。
 科学や哲学の一部を占めるこの立場は、「現象である人類には、現象の総体である世界というものの存在理由は理解し得ない」というものである。この立場では、「設計図の非開示」などを根拠として「設計図自体が無いのだ」とする。すなわち、理解できない無意味な世界があるだけとし、本質を覗き見るテーマパークの存在は認めない。この厳格な立場は「本質的」なものの介在を許さない。それは、この立場の者にとっては、「本質的」なものが充分に論拠をもって説明されていないと思われるからである。ゆえに、「本質的」なものは、夢想、錯覚、気の迷いなどとされる。
 この立場に特徴的な、世界認識の不能性は、ゲームの中のキャラクターがゲーム世界の存在理由を問えないことと、構造は同じである。
 しかし、われわれの場合、「完全に問えない」わけではない。上のような厳格な科学者は、自分が無意味なものであり、世界が無意味なものであってもなお存在していることや、無意味な世界の存在が続くことのコストの意味について、どう考えるのだろうか。
 もし単に世界がコストのみであるという話だとしても、ならば世界にはコストとしての意味があると言えよう。……実際には、このような仮定は、それこそコストの多い「非本質的」な考え方だと思うが。
 この科学者は、音楽や小説などの芸術について無意味だと答えるだろうか。彼は音楽を聴いても1グラムの「本質的」な感情をも覚えた事がないのだろうか。それなら筋は通っている。
 また、自分に世界を問わせる動機について、どう考えるのだろうか。世界が無意味だと解り切っているなら、世界を問う科学的活動をする必要はない。ということは、彼は、自分に世界を問わせる動機を迷妄や気の迷いと断じるのだろうか。彼は「おれは気が触れているぞ」と言いながら生きているのだろうか。さもなければ動機を認めることは矛盾になる。
 世界が(無意味だと)解り切っているならば、世界を問う動作は発生してはならないか、彼が蒙昧だから発生するか(おそらくそんなことはないだろう)どちらかである。
 世界が世界を問わせることは、世界が解り切っていること、安定していること、の反証になり得ないだろうか。すなわち、「世界は無意味である」というような命題のもとに括られる世界があるとしても、その外からの何らかの力を考えるべきではないだろうか。
 科学的に、そういう力を想定する仕事が、彼には必要ではないか?

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