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2019年06月06日 01:12 荘重な一日など3つ


座標上は近いが行くのに歩いて5分以上かかるドラクエ的なファミマ

切り立った高台の下にあって迂回必須


真夏の一日

 きのうは何をしていたかというと、アイマスの765プロが倒産するSSを読んだ。
 ミキノート・弓と矢(ジョジョマス)・不仲説を超えるものは現時点では無いけど、けっこう楽しめた。
 きょうはアイマスのCDR(車内に常備してある)を聴きながら、色々なことを考えさせてもらったんだけど、考えたことは何も書かず、アイマスの曲のことだけ書く。
 
 きょうは全体に時計回りを描いて戻って来たというドライブの経路だったが、最初のUダムのあたりで(きのうアイマスSSを読んでいたので無意識に)CDRを掛けて、ミキミキの
・追憶のサンドグラス
 を掛けた時に、今日の殺される暑さと世界を記憶する為に「令和夏アイマス再生リスト」を作ろうかなと感じた。次に
・relations
 が掛かると、これも美希の代表曲だな! との思いを強くする。美希が続いたので、
・すいみん不足
 で美希の緩みの面を取り入れた。空の青さ、風の温かさ、太陽の明るさ、まさに本日である。
・Marionetteは眠らない
 はミリマスの曲で、765とミリマスは、野球とソフトボールくらい違うので、あまり知らないのだが、屈指のキメがあり転調が美しいのが魅力で、なんといっても美希のパートがその魅力を作っているのも大きいな! と思った。
・流星群
 は夏ということで入れたゾ。歌詞、演奏、ジュリアの歌、どれも優秀にまとまりすぎだが、しかし良いでしょう。
・edeN
 あのPVで自分にお馴染みのシャレオツでダークな曲だゾ。自分的には真out響inを望むゾ。
・魂のルフラン
 は貴音のカバーの為にあるような曲でしたね。
 市内西部に到着し、空が青く、風が温かく、太陽が明るく、超眠いので、ここで【昼の部】は終了して、寝たゾ。

 夜になって、思い出したようにCDRを選曲、【夜の部】に入ると、
・ホウキ雲
 が掛かり、おっ伊織も今日の熱帯夜のあったかさにはいいやんけ! と思う。
・マリオネットの心
 が次に流れたが、これも聴かせるポイントは押さえられている。昼の部の『Marionetteは眠らない』の本歌というか元ネタの曲である。
 夜が深みに入り、そろそろ闇や死といったものたちが濃くなる時間帯なので、
・叫べ
 を掛ける。沼倉さん-響に関しては、あらかた書いているので、「現実」について描いた良作『魔法少女育成計画』のOPであることだけ書いておくゾ。この作詞は沼倉さんなんゾよね。ものすごく才能ありますね!(作詞専業でなく、声優もやりながらこの水準なのだから)
・アイ
 で闇を突き詰めて、本編終わりですよ! 終わり!! 

 でも聴き足りない自分みたいな奴は、
【ボーナストラック】の
・グッバイ
 でも聴けばいいゾ。
 響-沼倉さんは別格・格別ですよ! B・K!!
 最後に
・夢で逢えたら
 でも聴いて、「おやすみなさいなの~」と言って眠れ。
 それでもアタマが冴えてしまったら、
・MOONY
 で本当にエンディングですよ! エンディング!!

 いや~既にアイマスの自分のベスト盤を80分×3枚作っているのだが、更にこうしたリストが作れてしまう。今回のリストの中で、3枚のベスト盤に入ってる曲は、relations・edeN・魂のルフランの3曲だけである。
 夏とアイマスの精霊がワイを導いた。
 車中にスズメバチが入って来て死ぬかと思ったり、長~いしまへびが道の真ん中に寝ていたり、水難事故のあった現場で眺めさせられたりしました。
 きょうもすごい日でしたよ! すごい日!!


荘重な一日

 今朝起きると、寝ぼけて圧していたようで、メガネの弦が曲がってしまい、傾いてしか掛けられなくなったんだが、そのことから、ちょうど今朝考えていた問題への糸口を得た。つまり、今までの考え方では「視点がずれている」ことを知らされ、そう考えると問題が氷解した。
 メガネをメガネ屋さんで直してから、隣県の先輩の話を聴きに行った。素晴らしい話ができた。あちらからすれば自分は若造に過ぎないが、ご厚意で四時間近く話して頂いた。業界の闇についても意見が合い、また知らない情報を教えられて大変ためになった。またお訪ねすると思う。
 その方の家の近くの道の駅を、およそ30年ぶりに再訪し、親子丼を食べていたら、落雷で停電した。この事象は今朝気付いた問題を象徴しているようにも思われた。
 ところで私は今朝から隣県への道中にかけて、あることに気付いた。
 すなわち、言葉には二種類あり、われわれは二種類を混同しがちだが、それは「視点がずれている」ことによって混同しているのであり、両者は全く違うものであるということだ。このことの詳しい記述は別所で機会があればする。
 二種類のうち、「個体の私が用いる言葉」については、わたしはこれが完全に全て誤りであることを確信した。これはわれわれの生に非常に影響を及ぼす命題である(影響については省略する)。
 補足として哲学的に述べれば、過去の思ったつぎの見解をわたしは「やはりそうだ!」と強く思った。

『カントが(超越論的弁証論そして超越論的感性論において)述べたことは、端的に言えば「『私』の使うあらゆる言葉は誤りである」ということである。
 この一言のためにカントは千ページを費やした。人々はそれを笑うであろうか。現在でも「私」の言葉ばかりが巷に溢れているとしても?』

 またこの確信から、論証の展開は省くが、わたしは過去に一つも物語を描いたことがなかったことを知った。
 正確には、物語とは、物語がめざすものへの憧れにほかならず、めざすものに到達したら物語とは言えない、ということだ。不完全さ・不完全すぎる認識による、永遠・完全なるものへの努力こそが、物語の意味(感動)なのである。しかし、物語の書き手は永遠や完全をいつか表現できるという無邪気な確信から出発し、人によってはその粘っこい無邪気さから永遠に覚めることがない。
 したがってきょうは、同時に、一つの物語が終わりを告げた。
 すなわち、物語を描こうとした者が遂に物語を描けず、自身の力では物語(永遠・完全)は描けなかったことを知った、という物語である。この物語が完結した。
 そこで自分は言った、
 なかなか面白い物語でしたよ! 物語!!
 と。
 この展開は、アニメを用いて変奏すれば、『極黒のブリュンヒルデ』の奈波との別れをやや想起させるものがある。
 また、今日は一日を通して、過去のわたしと、重さや荘重さを以て対話する日であり、同じアニメのOPなどのイデアが今日の空気を包んでいたのである。

 唐突に言うが、
 あるものが意味がないことが判るということは、意味のないものへのおよそ全ての観察によって、「意味あるもの」が初めて描き出される、ことによるのではないだろうか。
 無意味なものは、なるほど確かに全く無意味である、しかしその全霊をかけて、意味あるものを照らし出す。そして己は息絶えるのである。
 そのような星のもとに生まれ付いた者に、わたしは、「お疲れさまでした、安らかにお眠り下さい、あなたを愛しています。なぜならあなたの全ての道は間違いでしたが、真理への意志だけは正しいものであり、わたしはそれほど尊いものはないと思っているからです」と餞を贈るであろう。物語を描こうとあがいていた今までのわたしのような者に対して。
 この、全生涯に亘って何の意味もない灰色の自己犠牲は、哲学というものにもよく漂う空気であると思う。

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