2013年01月21日 05:16 悩みと現象など2つ

悩みと現象


 人の悩みの大半は、「自身や他人や世界が思い通りにいかないのが嫌だ」という動機のものである。
 この種の悩みは、現象の性質におのれが絡め取られ、おのれや周りの現象のありのままの姿を観ることができていない次元において発生する。

 ありのままは、ありのままであって、何を思い悩む必要があるのか。ありのままの物事や景色に文句を言うのは、客観的にいって、異常と言うのである。動物や虫が思い悩むだろうか。多くの悩める人間は、子供や動物や虫よりも、世界の事実の認識において劣っている。

 現象にまみれて、注意があっちに振れこっちに振れしていては、現象をありのままに観る(これを直観という)ことすらできていない。美を知るには、世界を直観することさえできればいい。


※たとえば、なんでもないできごとの描写がそれだけで面白い小説というものがある(これを、現時点でわたしは、小説の理想と思っている)。これは、世界の直観(小説はそれを記述しているが)が美的であることを示す端的な一例である。


現実世界という舞台

 現象とは、エネルギーのひとつの実体化形態である。現象という相、帯域、のわけである。

 エネルギーが舞台(現象の世界)に上らせ、演じ、使い捨てる人形・着ぐるみ・俳優といったものが、現象というものどもであり、形態である。

 現象自体に意味はない。現象界は劇の舞台、現象は舞台の人形に過ぎないのだから。
 もちろん「現象界のしくみ」(現象がそれにつねに絡め取られているさまざまの現象的機能)は、現象間のおきてであるにすぎず、それらが現象において考察されるかぎり、何の意味も見出すことはできない。

 われわれが「舞台の奥」を、すなわち本質であるエネルギーの存在を、推測ないし認識できるのは、われわれは現象であり、現象とはほかならぬ本質的エネルギーによって作り出され配置されている存在だからであると思われる。
 そうでなければ、われわれが本質であるエネルギーを認識できることが説明できない。ほかには説明が考えつかないというのが理由である。
 現象が本質を認識できることの自然な説明は、「既に知っているから」以外にはないのである。既に知っているのでなければ、存在の階層からして、現象が本質を現象内の力だけで(=現象の階層のものごとだけを利用して)認識することは不可能だからである。

 われわれ現象は、本質であるエネルギーの実体化・具体化という相における形態であって、すなわちかりそめの存在である。われわれは舞台人形である。

 現象界が人形劇の舞台であり、現象が人形であるのならば、もっとも高尚にして唯一の問題は、「いかに上質の舞台と人形を整えた劇を織り成すことができるか」という事に尽きる。

 したがって物語作家は現象界の最も本質的な職種である。

 舞台の補修や修繕、人形の廃棄や生産や修理や管理、ある舞台(=文明、時代、等)における人形の造形の作風や流行、などの「舞台進行」の仕事は、劇を遂行するうえで必要な仕事ではあるが、本質的な仕事ではない。
 舞台進行の仕事は舞台上で適宜行われるものである。それらは劇を支障なく進めるための準備機能でしかない。「現象界のしくみ」が現象において考察されるかぎり何の意味もないと述べたのはこの意味である。それらは本質と、つまり劇の本筋と関わることでのみ意味が出てくるものである。

 真に意味をもっているのは、どのような劇であるか、それが上質な劇であるか、ということだけなのである。
 
 しかし、われわれ現象は、だれでも上質な劇を考案する権利と可能性とをもっている。
 現象であるとは、まさにその考案の醍醐味を味わい尽くしてよいということであるのだから。

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