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家族の合間でミニマリストであり続けるには

2022年まで長年にわたり単身赴任をしていました。

その時に学んだミニマリズムという考え方に深く共感し、学び、実践してきましたが、昨年自宅に戻ってから1年ほどは、少し悩ましい日々を過ごすことになりました。
ミリマリストというスタイルは家族生活と親和性があるのか?
それとも、実践は難しいのか?考えてみます。

自分の望むスタイルを100%実践するのは、「自分勝手」になりがちです。

結論からお伝えすると、1年ほどは、悩む日々が続きます。ライフスタイルを家族に順応させることに思いを巡らせる期間になりました。

「1人暮らしと同じことはできないな、やり方ちょっと考えないと。」
ということです。

至極当たり前の結論なのですが、5年以上も家を空けていると、この当たり前に思えることもわからず、ストレスの一因になっていました。

改めて整理すると、ミニマリストな生活スタイルというのは
・(私にとって)必要最低限のモノで生活すること。
・(私のニーズにあわせた)モノだけに限らず、(私に最適な)習慣や考え方に集中するシンプルな選択をすること。

定義は人によって違うかもしれませんが、こういった言葉で表現ができそうです。( )で括ったフレーズは、今回の問題に合わせて補足しました。

「ミニマリスト」という言葉で検索すれば、ベッドはもちろんのこと、ダイニングテーブルやちゃぶ台、テレビが置かれていない、がらんどうの部屋の写真がたくさん出てくるのではないでしょうか。

事実、私が一人暮らしの時にはそういったスタイルで生活していました。

1人だったら、デスク以外の大きなテーブルは使わない。テレビも見ていないので不要です。

他の方の例もインターネットですぐ拝見することができます。
ミニマリストを学ぶ時に参考にしていた、ミニマリストのリーダーである佐々木典士さんや、SIBUさんなどの家も、同じように最小限のもので過ごされています。

参考までに、こちらは佐々木さんのサイト。バナーからスッキリしていて好ましいです。

一見なにもない。しかしその実、本人が必要としているものだけは揃っているわけです。

ただし、この2人には共通点があり、その点を当初私は失念していました。

それは、
どちらのライフスタイルも「1人ぐらし」という背景があること。
自分のライフスタイルを、他人との摩擦を恐れず追求できたということです。

この「孤独にシンプルライフを追求する」という方法は日本にとどまりません。

アメリカの思想家、H・D・ソローという人物も、シンプルな生活、資本主義社会に嫌気がさし、町から離れた孤独な生活を2年以上過ごしました。
(詳しくは彼の著書、森の生活を参照ください)
文化、場所にかかわらず、ライフスタイルを改める時に「個人で試す」というケースが見受けられました。

そして、これに気づかないまま、昨年実家に戻ってしまいました。

何が起きるのか、想像に難くないと思いますが、家族の日常生活とのギャップが生じ、お互いにストレスとなりました。

かたや、
季節が変わったら新しい服がほしい、
本を買いたい、
ストックを増やしたいから冷凍庫を増やしたい、

と思っている。

反面、その隣りに立っている旦那は、
この服は減らせないか、
本は極力電子化できないか、だれも読んでいないほんなら一度手放そう
ストッカーそのものがあるからモノが増えるんだよな、

と目を光らせている

買い物に出かけても考え方がまるで違っているわけです。
常に口に出すわけではありませんが、そっけない態度から、
「こいつ、買い物に同意していないな。」と気づかれるのに時間はかかりませんでした。

結果的に、買い物、片付けは衝突の連続になりがち。
そりゃそうです。買っている側からして常に反対している人間が隣にいたら面白くないですよね。

そんなわけで、単身赴任からもどった当初はだいぶ大変でした。
これからも生活を円滑に営むためには、自分の考え方をある程度改めないといけません。

(対策)考えの範囲をシフトさせる

そこでどうしたのか。この1年で見直したことは2つあります。

  1. 見返す範囲を自宅全部から、自分のカテゴリに限定した。

  2. 共有スペースの整理整頓は家族のライフスタイルを尊重する。

1 まず範囲を狭めました。

わかりやすくいうと、自分の寝室(兼勉強部屋)と、家庭菜園、クローゼットに意識を集中するようにしました。
ここは自分の判断でモノを減らすことができますし、家族からしても思い入れが少ないので衝突しません。

例えば、サムネイルの写真は私の寝室にある本棚です。

以前は、この本棚がもう1台と、壁付けの本棚、あと謎のサイドテーブルなんかもありました。それも1年かけて減らしていき、今はこの1台に持ち物を集約しています。私の寝室が自宅のなかで一番広い部屋になりました。

2 そして、共有スペースは家族の意見を尊重し、任せるようにしました。

同居している以上、そのすべてのスペースを1人が好き勝手するのは適切ではない、お互いやりたいようにした方が好ましいということです。

ちなみに、イギリスの思想家、J.S.ミルは、こんな言葉を残しています。
彼も、自宅が散らかっている時にこんなことを思ったのでしょうか(なわけないか)

自由の名に値する唯一の自由は、われわれが他人の幸福を奪い取ろうとせず、また幸福を得ようとする他人の努力を阻害しないかぎり、われわれは自分自身の幸福を自分自身の方法において追求する自由である

J.S.ミル 自由論


相手を阻害しない。相手を「尊重」するという思考を、ミニマリストにかぶれていた頃はあまりもっていなかったなぁ、という振り返り、今実践しています。

妻と娘、は自分に比べて不要なモノを手放す、捨てるという発想は弱いです。4歳の息子も(当然ながら)整理という習慣はありません。

ですので、極力ストックできる環境を整えて、少なくとも床がモノで埋まらないようにしよう。という程度に改めました。
私の考えとは必ずしも一致しませんが、少なくとも衝突は避けられる。そんな方針に転換しました。

今思うと、自分のマイノリティーな考え方が、家族とはいえ(しかも何も説明ないし)理解してもらえるはずはありません。
仮に説得を試みても、モノの多少は価値観と大きく関わってきます。なかなか一朝一夕には変わらないでしょう。

蛇足が続きますが、価値観というと、私が普段から読んでいるアドラー心理学が頭に浮かびます。

アドラー心理学は、ユングやフロイトと同世代に活躍した、アルフレッド・アドラーが提唱した心理学の分野で、日本では『嫌われる勇気』という本が、先鞭をつけたことでいっきにその名が知れ渡りました。
読んだことはなくても、この青い表紙は見たことがある方多いのではないでしょうか。

この本の中で、アドラーは「ライフスタイル」という言葉を提案します。日本語では人生の選び方、ということになるでしょうか。

わたしたちは、生活で起きたことに自動人形のように生きているのではない。その起きたことに対して、「意味付け」をし、「目的となる生活を選んで」いる。
幸せな生活も、一見不幸な生活も、すべて自分が選び取ったライフスタイルである、と言います。

今回話題にした片付けも、このライフスタイルの1つとして「選び取った」生活様式に他なりません。

わたしは充実した生活のために、不要なモノを捨てている。
妻や娘だって、生活のために、モノを十分に持とうとしている。

どちらも、自分のライフスタイルとズレているわけではないのです。

これに気づくと、無理にモノを捨てさせようとする試みが、相手の生き方をいかに侵害しているか、気づくことができました。

自分の人生を豊かにする。いまはこれを指す言葉として、
「ウェルビーイング」というフレーズが浸透しています。
心身ともに満たされた状態です。

これを達成するために、今回気付いたことは、

(自分が)好きなモノに集中し、そうでないものを手放す 
だけではなくて、
(パートナーの)異なる価値観にも配慮し、侵害しないようにする。

そんな態度かもしれません。日々精進です。

以上。久しぶりの長文お読みいただきありがとうございました。


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