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野菜を育てながら「影響の輪」と「関心の輪」のつながりを体感する

去年から力を入れ始めた家庭菜園。土いじりの話題です。
とはいっても、わたしもまだまだ素人。
「ミニトマト一株から800個収穫する方法」とか、
「害鳥からブルーベリーの実を守るネットの張り方」といった
プロ顔負けの便利情報をnoteに残そう、という訳ではありません。

野菜を植えて、育てて、収穫するというプロセスから学んだことは、野菜だけに限りません。別の分野にも当てはまる大切な気づきでした。

そこで、備忘をかねて書いておこうと今回テーマで書き始めました。
野菜を育てている人にとっては当たり前かもしれません。
それでも、自分の発見をシェアしたい衝動に絶えられず、noteに残します。

野菜から教わった気づきー関心の領域が広がる

「アイドルが何十人も並んでテレビに出ていると、誰が誰だかわからない。」

「日曜日の戦隊モノは毎年変わる。赤〇◯って言われてもいつの誰やら。みんな赤いマスクかぶってる似た者同士じゃん。」


今回の気づきの背景になる、40代あるあるから始めます。

中年になったみなさんなら、一度は聞いたり、言ったことがあるセリフです(30代の方はあと少しです)

2000年代、ネット社会に突入すると、望んでも望まなくても情報が手元のスマートフォンを通じて届く時代になりました。

わたしは普段テレビは見ていません。それでもスマートフォンの検索アプリや、無料アプリを立ち上げると、自分が求めていない新作マンガの紹介(だいたい最初の数話が無料)、新しいゲームの話題、芸能人の誰かが炎上した、などといったゴシップ記事が画面の下部を占拠します(自分の検索履歴から、そこそこ興味があるものがセレクトされていると、なお都合が悪い)

これもネット上の情報ですが、
「わたしたちが1日に得る情報量は、江戸時代の庶民が受け取っていた情報量の1年分に相当する」そうです。
※誰が調べたんだ?情報ってどこまでの話だ?と、わたし自身訝しんでいるので、ファクトではなく、噂程度で受け止めています。

ただ、自分がガキんちょだった昭和と比べて、ネットを通じて五感に届く情報は計り知れないほど増えたのは体感として理解しています。

情報が無尽蔵に増え続ける環境におかれると、わたし(もしくは同世代の方々)は何をしてしまいがちか。
それは、自分の関心事の外にある話題を、十把一絡げで考えるという習慣。いわゆる同質化だと考えています。

たくさんの人々、集団、グループをまとめてしまう。シンプルにすることで、「世界をかんたんに捉えようとする」心の動きが働いています。

アイドルグループをみて「どれも同じ顔」と言ってしまうこと。
戦隊モノのメンバーをみて「どれも赤いマスク」と割り切ってしまうこと。
どれも、世界を習慣(悪く言うと偏見)で捉えるアプローチです。

これは楽をしたい脳にとって都合が良いですね。厳密な区別も判断も必要ない、無意識下で世界を理解した気になれます。
どんな気持ちになっても、「これはやばい」と表現すれば何でも事足りる世界観です。

さて、この情報過多と、同質化が家庭菜園とどんな関係があるのか?
そろそろ本題に入れ!と思われたのではないかと思います。話を戻します。

家で土いじりを始めて発見したこと。1つめ。

これまで同質化されていたモノへの見方が、その分野、今回は農業においては多様化するのです。

多様化とは、先ほど話していた同質化とは逆の働きです。
「アイドル1人1人の判別がつくようになる」
「戦隊モノの登場人物の特徴が理解できる」よりモノゴトの差異に気づく態度です。

家庭菜園をするまでは、キャベツとレタスの区別もつきませんでした(これは奥さんが証人。ほんとうに2分の一の確率で間違えてました)

田舎に住んでいるので、畑田んぼは嫌と言うほど目にに入るのですが、それもただの背景に過ぎませんでした。
「農地に家を建てる時には認可が必要らしいよね」とか、
「田んぼに水が入ったから、もう初夏だな〜」
くらいの気持ちだったのです。

ところが、買ってきた土(土を購入したことある人はどのくらいいるでしょうか)をプランターに流し込み、苗を選び、植えるようになると発想がガラリと変わりました。

それは、自分の知識がゼロから1に深まるだけではなく、それまで目の端に入っていた風景がシフトし、視界の中心に向かって収まる感覚。

まるでスナイパーがスコープで遠方のターゲットを捉えるようです。

心から興味が湧くようになったのです。

近所を少し歩いているだけもこんな調子です。

「この畑はミニトマトたくさん植えてるな〜」と思う。
葉っぱから、なんの野菜が栽培されているのか、少しわかるようになった背景があります。
「枝を支持するための棒をしっかり固定している。支柱同士の固定も手慣れていそうだ」
とため息をつく。
大きく野菜を育てるには支柱が必要なことを知り、さらに野菜(さらにはその品種)によって、支柱の立て方は様々あると知った上で評価しています。
「この量を植え付けるのに、どれだけ手間暇かけたんだ、、、」
、、、ただただ、その質と量に畏敬の念を覚えずにはいられません。視界一面の土壌が「野菜を育てる」という一点において最適化されているとは、とても信じがたい。奇跡の業です。

こういった風です。

自分の手で始めたからこそ、同じ事をより高い精度でこなしている風景に目が向くようになりました。

奥さんからも言われます。
「運転中、他人の畑を見ている時の目が違う」のだそうです。

尊敬のまなざし。どうしたらこんな生き生きとした土壌を整備して、枯らすことも腐らせることも無く、スーパーで売れるほど美しい野菜に仕立てられるのか?
腰の曲がったおじいさん、おばあさんの作業風景を見て、常々思うようになりました。

次に、タイトルに使った影響の輪と関心の輪という言葉に触れます。

ご存じの方には釈迦に説法かもしれません。『7つの習慣』を書いたスティーブン・R・コービー氏が著書の中で用いた、言葉です。

影響の輪とは:自分自身の行いで変えることができる範囲。
自分の生活習慣や、仕事。自分が今日着る服。
関心の輪とは:自分に影響を与える、身の回りを取り巻く環境。
自分に影響があるかもしれないが、変えることが無いこと。天気や世界情勢。奥さんが今日着る服。

コービー氏は著書で、
影響の輪、つまり自分が変えられることに意識をできる限り向けていこう。
逆に関心の輪への意識を下げることで、自己肯定感が下がるきっかけを減らそう
と言っています。

自分の手元から世界を「変えることができる」と革命家のような目を向けるか。
それとも離れた場所から、「この世界はもうどうしようもない」と諦めてしまうか。
どちらが、幸福感や、充実感につながるでしょうか。

昨今は、世界を「あるがまま受け入れる」という考えかたもるので、絶対とは言い切れません。わたし自身は、前者の考え方、影響の輪から世の中をみつめることで、家庭や職場が充実したコミュニティーになったと実感しています。

今回のエントリーで伝えたかったのは、この目線の多様化と影響の輪はつながっているのではないかという気づきです。

野菜作りに関心を寄せる。つまり、新たに影響の輪を広げたことで、本来関係が無いはずの他人が耕す畑にまで視野が広がるようになるのです。
影響の輪だけでなく、これは関心の輪の効用が変わったという意味でもあります。

自分が影響の輪を広げるまでは、関心の輪から得られる情報は、ただの「暇つぶし」であり、「余興」に過ぎませんでした。
しかし、自分で何かを始めると、関心の輪は金鉱脈のようにみえます。
「もしかすると、ここは発見があるかもしれない。自分がしていることに役立つヒントが1つ2つ埋まっているかもしれない」という風に。

家庭菜園をすると世界「観」が変わる。

マザー・テレサが世界を感動させたセリフより地味極まりないですが、自分に染みるセリフとしてこのフレーズはGoogleキープにメモしておこうと思います(50代になった自分は何を思うものやら)

以上です。今回は、自宅の畑から気付いたことから、関心領域の広がりについて書きました。
まだまだ書きたいことがあるので、後半に続きます。

今回も長文をお読みいただき、誠にありがとうございました。







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