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価値基準が場所によって違う

新卒で入った会社の先輩と、数年ぶりに話をした。私は入社5年目でその会社をやめたのだが、同じ年の上半期に先輩はやめていた。先輩は中国語が喋れる人だったので、中国でフリージャーナリストをやってるとか、なんとか、いろいろな怪情報が流れていたが、今は一体何をやっているのか全くわからなかった。去年、数年ぶりに急に連絡が来たのだ。会おう会おうとずるずる予定を調整できずに、最近ようやく会えたわけだ。

先輩は会社をやめた理由、その後のキャリアについて教えてくれた。先輩の歩んだキャリアは私が憧れるような意識高いビデオジャーナリストそのものだった。君はどうしてたの?と、言われ、私は思わず言葉が詰まってしまった。私は、そんな意識の高さもなく、健康的な生き方の模索と魂の叫びをぶつけるように仕事を続けてきただけで、先輩のようなかっこいいキャリアをぱっと思いつかなかったからだ。正直にその旨を伝えた。

自分自身が社会に適応できない苦しさを元に、ひきこもりやニートなど落伍者の烙印を押されている人たちの代弁となるものを作ってきたと、伝えた。彼らと同じ目線でいるために、自分の意識の高さを意識高い系(笑)とあざ笑い、しんどい、つらい、ということばかり言語化してきた。そんな説明をしながら、あることに気がついた。先輩の話す文脈で言葉を並び替えれば、私も意識が高いビデオジャーナリストになれちゃうんじゃないか?と。

病院に通院している、薬を服用している、まともに稼げてない、という部分を除けば、ディレクターとしてキャリアを積み、賞なんかも取ったりしているわけだ。聞く人が聞けば、すごい、と思われるのではなかろうか?

価値基準は、その人の属するコミュニティによる、と思ったのはもう一つある。それは、ちょい悪オヤジっぽい、冷笑系なコミュニケーションを取る人とあったからだ。自分の納得しないことには上司にも歯向かい、情に厚く、仕事以上に遊びに一生懸命、そんな一面を見せることで仲間意識を高める人たちだ。メンヘラは見下し、意識高い系は馬鹿にする、冷笑系の雰囲気を感じ、新鮮であると同時に、少し困惑してしまった。そのコミュニティ内で、「かっこいいバカができるカッコいい男」だけが認められるとヒシヒシと感じた。下ネタや頑張っている人たちに批判的な言葉を発したりして、コミュニティ内で認められようと頑張ってしまった。

世の中に対する恨み節を吐き出し、ニヒルな笑いや下品なことを言う、けれど、仕事ができないアピールはNG、そこそこ、普通にこなせている部分だけを出す。彼らには、そういう価値基準を感じた。

30代になってから私はメンヘラ系に身をおいていたので、意識高い系も冷笑系も正直かなり苦手意識を持っていた。まあ、仕事をしている大人たちの殆どは意識高い系と冷笑系だと思うので、心が弱いメンヘラ系の私は彼らと対峙すると心が折れそうになっていた。しかし、先輩は、メンヘラの側面を馬鹿にすることなく、フラットに聞いてくれたので、メンヘラの部分を隠すことなく、ついうっかり素直に話せてしまった。その姿勢の御蔭で、どこのコミュニティにいっても、私という人間はかわらなくて、変わるのは、私の人生のどの部分に価値があるか、評価してもらえるかが変わるだけなんだと思えた。

おそらく、ざくっと分別すれば、世の中ってこういう構造なんじゃないかなと思う。

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厳密には、意識高い系の中にもガチ勢と無理やり勢とか色々いるんだろうし、冷笑系も、もっと違う表現のが適切だろうけど。意識高い系は、直接的に接点が少ないメンヘラ系に優しいのだろう。

逆に、世の中を支えているしっかり仕事ができる冷笑系の人たちは、メンヘラと接している分、思いっきり見下しにかかるし、上を押さえつけてくる意識高い系に闘争心を燃やすのだろう。まあ、冷笑系って一言でいい表せないとは思うんだけど。

私は、社会では糞のやくにも立たない落伍者だと思っていたが、そんなことは決してないのかもしれない。まあ、冷笑系のコミュニティでは、馬鹿真面目なところと、ポンコツなところしかない私は、見下されるだけの存在なってしまいそうだけど…。

自分がどこのコミュニティに属しているか、そこで、自分のどの部分を見せるかって、地味に大事なのかなーとか、今自分の所属しているコミュニティの価値は絶対ではないんだなーとか思った。それをちょっと書きたかった次第。


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