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恐れ多くも、タナソー・ロキノン擁護論

こんぬづわ。
今日はちょっと疑問を呈したいことがあり、記事にすることにしました。

知ってる方は知ってると思うのですが、今週、ある音楽評論家(以下、敬愛を込めてタナソーと呼び捨てます。)がレコード万引き自慢をしたということで自分の旧Twitterのタイムラインは大荒れ。

このツイートに対し、まずは多数のレコ屋アカウントが反応。

「レコードは薄利多売のため、一枚万引きされただけでもその額を取り戻すのに何枚も売らなければならない」

との趣旨のツイートは非常に納得感が高く、筆者も含め同情票が集まったと思います。

その後も「万引きは犯罪であり正当化できない」、との正論ツイートが雨後の筍のように溢れている状況。同内容のツイートが、これでもかと流れてきます。

さらにはタナソーが関わっていた雑誌ロッキングオンの横暴な権力体質まで暴露されて炎上し始めました。

要するに、洋楽最盛期の90年代に我々が楽しんできたアーティストの記事はレコード会社の出す広告料によって左右されており、当時、ロキノン側の営業手法に横暴さを感じていた関係者が少なからず存在していたようです。

案の定、コーネリアスの小山田問題も引き合いに出されてロキノン叩きが展開されています。

ここからは筆者の主張なのですが、相変わらず日本語世界は一方向の意見に流されやすく、息苦しいなと。

筆者は別にタナソー信者ではなく、彼が出版していたスヌーザーも読んではいなかったというお断りをしつつも、今更正論を振りかざし、ひとりをスケープゴートにして、何が楽しいのかと思います。

まずレコードに限らず万引きが犯罪なのは世間の常識であって、誰も否定することができない事実です。

タナソー自身もそんなことは百も承知の上で、極論を半ば意図的に展開したはず。

それは本人が言及しているように極左体質によるものなのかもしれませんが、筆者はそこにパンクなり、ロック・スピリットを感じます。

筆者のパンクやロック・スピリットの定義とは、(嫌われるとわかっていても)「普通ひとが言わない反体制的ことを言い、やらないことをやる」

キャンセル・カルチャーが蔓延る現代では、もやはパンクなりロックな発言はもはや許容されない、ということなのかもしれません。

しかし、こんなやんちゃなロックキッズのまま大人になったような個人の言動すらスルーされず徹底的に叩かれる世の中って、あまりにも息苦しくありませんか?

しかも「万引きは犯罪」との正論で溢れており、誰もタナソーが多少なりとも築いてきたサブカル文化圏や、そのサークルの一員としてサブカルを楽しんできた大人も彼に対するリスペクトを表明せず、正論に対するカウンターアタックなど見る影もありません。

見逃してやれよ・・

というのが筆者の正直な感想です。

昨今の政治のことは敢えて触れないにしても、誰もが体制側に立って発言し、言葉狩りをし始める。

誰かが正論を言い出すとその正論に賛同するものが現れはじめ、やがては雪崩のように同じ言説が溢れ出す。

どうしてこんな世の中になってしまったんでしょう・・?

これならネットがない時代、好きなひとだけが好きな雑誌を買って自由な言論を楽しむ、マイナーなサークルが乱立していた時代の方が、よほど楽しくなかったですか?

多様な表現が許容され、言いたい放題な世の中の方が、単純に楽しくないですか?

この時代の変化に取り残された20世紀に育った大人が環境の変化に適応できず淘汰されていくのでしょうか。

同じ20世紀に育った者として、そんな世の中には適応したくない、というのが筆者の思いでもあります。

皆さんはどう思われるでしょうか。

この問題は意外と政治的な岐路に関する大きなトピックを含んでいるようにも感じるのです。











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