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間違いだらけの生涯



これは、本人による反省の出来事だ。


これを読んで、少しでもヒントを得れたらと思う。


■人間は誰しも間違える

私は多くを間違えた。それは、人と接する時の態度や、周りに対するプライド、対処の仕方、逃げ方、お金の使い方、考え方、歩幅の広さ、服の着方、言葉遣い、姿勢、全てにおいてだ。

全てにおいて間違えてきた。
私は完璧ではない、ただの未熟な人だ。

この26年間において、蓄積されてきた間違えを正すことは極めて難しい。
何度も、愛する人や友人としていてくれる人たちに支えられてきたと思っている。
特に愛してくれている人には、多大なる迷惑をかけた。

■ 私は、私にとって苦手な人から去った。


誘われて行った集まりの話だ。
話を端折るが、私は嫌な気分だった。
そして、何かを知っているかの如く話すその態度も苦手な印象だ。私はその時まだ若かった。年齢ではない、精神がだ。私は嫌になって途中で帰った。
今となってもその行動は正しいと思う。自分にとっては。

私がした行為自体は、彼らにとっては正しくなかった。
私はそれも百も承知で帰ったが、のちに道であった時にしっかり謝った。
私は間違えた。

■ お金の使い方

私はまた間違えた。頑張って成り立たせたビジネスで得た収益を、自分の欲しいものに全て使ってしまった。
今となっては、それも正しかったように思える。
現に今、私は、あまり欲しいものがない。
その欲求を若いうちに満たせてよかったと思う。

■ 逃げ方

私は学校が大嫌いだった。何度も休み、1年で40日近く休んだ。
でもこれには明確な意思がある。
部活だけやりたい。ただそれだけだ。
基本的に休むのは、部活のない曜日だけだった。
今思えばそれは、正しい心の状態だったが、もう少し上手くやれたんじゃないかと思った。
ただ、反骨精神は素晴らしい。

■ 対処の仕方

人が何かを訴えるときや、感情的になるとき、すぐに分析をし始める癖は、間違いだ。
私は間違えた。
解決方法を探しながら、なぜそんな感情になる必要があるのかを、ただ疑問に思うばかりだった。
人の気持ちがわからないのかもしれない。
というより、なぜ合理的判断をしない?と疑問符がつく。
しかしこれは間違いだ。親しい関係には、合理的判断を持ち込んではいけない。この考えは、フィフティフィフティーにするべきだ。
合理的判断と感情的な判断。この50%の分け方は、仏教的中道で、日本文化的で、良い塩梅なのだ。

■ 服の着方

昔は、多くの服を持った。それをビジネスにできるほどだ。私にとって、多くの服を持ち、オシャレをすることはステータスだと思っていた。それと趣味であった。
だがしかし、今となっては多少無駄だっと思う。ファッションは素晴らしいが、僕にはハマらないものと悟った。
そして本当に好きな服は何だろうかと考える余地もなかった。それくらい、ファッションというものに目が眩んでいた。
それぐらい魅力的なドラッグだが、それにはたくさんの副作用が出た。
ファッションは、人間関係、お金の使い方、姿勢、態度など多くが乱れる。
それはファッションを仕事にすれば尚更だ。それを修正するのにどれほど苦労したか。
今はあの時のようには絶対にならないしなれない。とても奇抜で目が眩む。
まるで、自分に価値があるかのように演出する様は、自分には価値がないと言っているよにも捉えられるように、今となってはあまり興味がない。
ファッションは良い意味でも悪い意味でも表面的だ。ファッションが美しくても、その人自体が素晴らしいとはかぎらない。何度もいうが表面的だ。

■ 私はもっと内面を見つめたくなった。


私はこれまでも今でも間違いを犯す。だから内省する。あの時はこうすればよかったとか、あんなことなんでしたのかと。
でも落ち込むことはない。間違いがあるということは、まだ成長できる見込みがあるということ。
この考え方は、数学や哲学で習った。
つまり合理的判断に基づいて、感情や考え方を切り分けろという事だ。
これに一旦癖づくと、人間関係が多少大変になるが、この回路を持つことは大切だと思う。

■ 何が伝えたかったのか

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