![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/88151600/rectangle_large_type_2_a7d4d0931654a5e5e3a9436045ea11d5.jpg?width=1200)
漫画におけるアントニオ猪木の歴史 01 (1960年代)
2022年10月1日。アントニオ猪木がその生涯の幕を閉じた。
プロレス史に遺した業績と存在感のあまりの大きさに、プロレスや格闘をテーマとした漫画には必ずアントニオ猪木あるいは猪木をモチーフにしたレスラーが描かれてきた。
ここで改めてアントニオ猪木の歴史を追い、その描かれ方の変遷を見ていきたい。
なお作中に添付した画像に付記した年号は第1話掲載年あるいは単行本1巻初版発行年であり、統一はされていないのであしからず。
1960年代
1960年 (S35年)
9/30 日本プロレスでデビュー 5つ年上のジャイアント馬場も同日デビュー
1962年 (S37年)
8月頃 ドラマ『チャンピオン太』に死神酋長役で出演 リングネームも死神酋長にされかける
1963年 (S38年)
12/15 力道山死去
1964年 (S39年)~1966年 (S41年)
アメリカ遠征 リトル・トーキョー・トムなどのリングネームで闘う
1966年 (S41年)
10/12 東京プロレスに引き抜き 旗揚げ第1戦のメインイベントを務める
1967年(S42年)
5/26 東京プロレス崩壊 日本プロレスに復帰
10/31 ジャイアント馬場とのタッグである BI砲結成 馬場に次ぐ日プロ2番手となる
1969年 (S44年)
5/16 第11回ワールド・リーグ初優勝 ジャイアント馬場を追う立場から肩を並べる存在になる
60年代はまだ若手ではあったが、アメリカ遠征から戻った際に日本プロレスから分裂した東京プロレスに引き抜かれた際にはエースとして迎え入れられている。また短期間で崩壊した東京プロレスから日本プロレスに戻った際もジャイアント馬場に次ぐ二番手として活躍した。
「68年頃 (中略) ゴッチから “自分が教えている日本人の中で猪木というグッドレスラーがいる” と話を聞いていたんだよ」 (ビル・ロビンソン)
「道場の中で猪木さんは殴り合いでもグラウンドでも、あらゆる面で強かったですよ」 (北沢幹之)
後年には異種格闘家に手を伸ばすアントニオ猪木だが、若手時代からその強さを周囲に認められていた。
![画像3](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/88157509/picture_pc_3f551b23b6dfd285e3eec7c3089e601e.jpg?width=1200)
1962年 (S37年) 『チャンピオン太』未登場
![画像2](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/88151324/picture_pc_dea3d3b5357e191079417e42280a90df.jpg?width=1200)
![画像3](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/88151362/picture_pc_6507d0a9e43ec107e9aac4d16eca8007.jpg?width=1200)
1968年 (S43年) 『タイガーマスク』
アントニオ猪木
タイガーマスク初戦のタッグパートナーを務める。虎の穴にタイガーマスクを救出に来た際も馬場に次ぐ 2番目に紹介されている。