始まった途端に終わりを見つめるという保険
何かが始まると同時に終わりのことを考えている。日常の些細なことから重要な仕事のことまで。
我ながらネクラだ。
スーパーに食料品を買いに行くと何を作ろうかと地味に楽しくなるのに、いざ買い終わって冷蔵庫に入れると、途端にそれらを如何に無駄にせずに使い切るかというプレッシャーに変わる。
こと仕事に関しては自分がいなくなっても持続できるように、と考えるので、思い描く未来には自分がいないことばかり。
自分と組織を切り離して考える。
日本人らしく、和を重んじるからだろうか。自分が組織にいない方が上手く回るのなら躊躇いなく自主退職できると思ってる。
人間関係もそうかも知れない。知り合って親しくなっていくことが楽しくても、何らかの肩書きが付くとそれが終わることを考えずにはいられない。もっと言うと、どう上手く終わらせられるのかを。
実際、自分が関わらない方が幸せでいてもらえるのなら、離れる努力もする。
とんだ綺麗事。
仕事や人間関係のことについては、たぶん、愛着スタイルで回避傾向が強い人間の思考なんだと思う。
まだはっきりと分かっていないけれど、もともと何かが欠けている状態よりも、そこにあったものが欠けてしまう方が私にとってはずっとつらい。
だから始めから終わりを用意したいと思っているんじゃないか。そして、無意識の行動だから、時に嫌悪感すら抱いてしまったりするのかもしれない。
こんな保険は欲しくない。
回避型だって、人とまともな(安定型の人のような)関係を築きたいと思ってる。ただ、殻を破るために体力が恐ろしく必要なんだ。痛みと戦うための体力が。
体力を養うには当然休息が必要なのだけど、私は休み方をしらない。しかし、都合の良いことに、どうやら休み方にも技術というものが存在するらしい。
もう諦めかけていたところに、とんだ朗報だった。技術ならば修得できる可能性がある。
ぜひ鍛錬したいものだ。待つ、続報...。
いつもどうしようもない、陰鬱とした感じで終わる”ねごと”らしからぬ、希望のある寝言。ようやく眠くなってきたからかもしれない。
これから寝る人、おやすみ。早起きの人、おはよう。良い一日を...。