1921(大正10)11月8日(火) 菊池寛に連れられて川端康成,横光利一の三人が牛肉屋「江知勝」で牛鍋を食べる。菊池は川端が婚約者初代と住むはずの根津西須賀町の新居への引っ越し代を寄付。そして川端が浅草小島町の下宿に戻ると婚約者初代から突然「非常」による婚約破棄の手紙が届いていた。
川端康成(22)が婚約者の伊藤初代(15)から一方的な婚約破棄の手紙を受け取りました。前月に岐阜市で長良川河畔にある鐘秀館で婚約した2人でしたが、突然の別れを迎えることとなってしまいました。
川端康成は11歳年長の作家菊池寛(23)の好意で近く洋行する菊池の留守宅を新婚夫婦の二人が使ってよい、という約束を取り付けていました。また東京日日新聞に『真珠夫人』を掲載する等すでに人気作家となっていた菊池から生活費毎月50円の援助を受けることにもなっていました。川端は新婚生活にそなえてすでに初代との新居も本郷区根津西須賀町の戸沢常松の家の2階、8畳2間を借りており、家財道具も徐々に買い揃えていました。新妻となる初代の東京への到着を毎日心待ちにしていたことでしょう。
さてこの日も川端康成は小石川中富坂の菊池寛の自宅を訪ね、そこで初めて1歳年下の横光利一と出会っています。菊池、川端、横光の三人で本郷の牛肉屋「江知勝」に牛鍋を食べに行きました。支払いはもちろん菊池です。横光は先に帰りましたが、菊池は川端に新居への引越し代の足しにせよとがま口からお札を取り出して川端に与えたと言います。
結婚前の物入りのときですので川端はたいへん喜び、また菊池に感謝しました。そして新居用のざぶとんを5枚買い、明日引っ越す予定の根津西須賀町の戸沢常松に立ち寄りました。そして川端は浅草小島町の自分の下宿に戻ると岐阜の初代から下記のような婚約破棄の手紙が届いていました。
私は今、あなた様におことわり致したいことがあるのです。私はあなた様とかたくお約束を致しましたが、私には或る非常があるのです。それをどうしてもあなた様にお話しすることが出来ません。私今、このやうなことを申し上げれば、ふしぎにお思ひになるでせう。あなた様はその非常を話してくれと仰しやるでせう。その非常を話すくらゐなら、私は死んだはうがどんなに幸福でせう。どうか私のやうな者はこの世にゐなかつたとおぼしめして下さいませ。
あなた様が私に今度お手紙を下さいますその時は、私はこの岐阜には居りません。どこかの国で暮してゐると思つて下さいませ。私はあなた様との ○! を一生忘れはいたしません。私はもう失礼いたしませう―。(中略)さらば。私はあなた様の幸福を一生祈つて居りませう。私はどこの国でどうして暮すのでせう―。お別れいたします。さやうなら。
伊藤初代「川端康成宛ての書簡」(大正10年11月7日付)
この「ある非常」はのちに判明しますが、初代が預けられていた岐阜市加納の西方寺の住職、青木覚音(48)から初代が性的暴行を受けたことを指していました。川端はこの日の夜行列車に飛び乗り岐阜に向かいました。翌日初代と会いますが、初代はすっかり憔悴していたと言います。
一旦は婚約が回復しそうな気配があり、川端は便せん20枚の手紙を友人の三明永無経由で初代に渡しますが、東京に戻り再び結婚の準備をはじめた川端に、初代より永久の別れを告げる最後の手紙が届きました。
あなた様は私を愛して下さるのではないのです。私をお金の力でままにしようと思つていらつしやるのですね。私は手紙を見てから、私はあなた様を信じることが出来なくなりました。私はあなた様を恨みます。私は美しき着物もほしくはありませんです。
(中略)あなたは私が東京に行つてしまへば、後はどのやうになつてもかまはないと思ふ心なんですね。
(中略)村川様方に下さる手紙もとうに私の手に入らないやうになりました。あなた様がこの手紙を見て岐阜にいらつしやいましても、私はお目にかゝりません。あなたがどのやうにおつしやいましても、私は東京には行きません。さやうなら。
伊藤初代「川端康成宛ての書簡」(大正10年11月24日付)
なおこの日に菊池寛と川端康成、横光利一の三人が連れ立って牛鍋を食べた牛肉屋「江知勝」は、1871(明治4)年の創業の老舗です。夏目漱石をはじめ多くの文豪が通ったことで知られていますがが、コロナ禍のなか2020(令和2)年1月31日をもって惜しまれつつ閉店し、148年の歴史に幕を閉じました。