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【百年ニュース】1921(大正10)3月17日(木) クロンシュタットの反乱が鎮圧される。ソビエトのバルト艦隊の水兵がボリシェヴィキ政権の独裁化に反対し大規模な反乱を起こした。派遣されたトゥハチェフスキー指揮下の赤軍により鎮圧され,2103人が死刑,6459人が投獄され,8000人がフィンランドに亡命した。

クロンシュタットの反乱が鎮圧されました。

クロンシュタットはサンクトペテルブルク中心から北西に約32km、フィンランド湾に浮かぶコトリン島に位置する軍港で、バルチック艦隊の母港として有名です。

赤軍艦隊の水平たちは、リシェヴィキ政権の独裁化に反対し、自由選挙の保障、言論・出版の自由、政治犯の釈放、個人の財産の所有権などを要求して蜂起しました。

これはソビエト史における最大規模の反乱となりました。

当時、ロシア共産党政治局員の一人でペトログラード・ソヴィエト議長だったジノヴィエフは、ただちにクロンシュタットに軍を送り、トゥハチェフスキーの指揮の下でこの蜂起を鎮圧しました。

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英国の歴史家(政治学者,外交官)EHカー名著『ロシア革命』の当該部分記述

クロンシュタットの要塞に基地のある赤軍艦隊の水兵が,労働者と農民のための譲歩とソヴェトの自由な選挙とを要求して反乱を起こしたのである。

暴動は労働者反対派と直接の結びつきはなかったが,党の政策動向に不満をもった同様の根深い感情を反映していた。

実際にいた指導部は無政府主義者だったようであり,白色亡命者によって計画されたか教唆されたかというボリシェヴィキの疑惑は,根拠のないものだった。

もっとも,亡命者たちは後にこの反乱を宣伝材料として大いに利用することになるが。交渉や降伏への呼び掛けは,成果をもたらさなかった。

大会がレーニンの提案を討議している3月17日,赤軍の部隊が要塞に向かって水上を進撃した。

双方ともに粘り強く戦ったが,流血の戦闘の後に反乱軍は制圧され,要塞は奪取された。しかし,これまで革命の英雄として栄誉を浴びていた人々による大規模な反乱は,党の威信と信頼への重大な一撃であった。

おそらくそうしたことも影響して,大会は新経済政策を受容し,また党規律を引き締め,党内外の異端に対するより強力な保障を与える提案をあっさりと受け入れた。

E.H.カー『ロシア革命』岩波現代文庫,1979,46頁

E・H・カー



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吉塚康一 Koichi Yoshizuka
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