【百年ニュース】1921(大正10)12月3日(土) のちの三菱鉛筆社長の数原三郎に次男,数原洋二が誕生。洋二は1944(昭和19)京都帝国大学工学部卒,続き大学院でも学ぶ。1948(昭和23)三菱鉛筆入社。1960(昭和35)社長に就任。1987(昭和62)に長男,数原英一郎に社長を譲り会長職に退く。2020(令和2)没,享年98。
のちの三菱鉛筆社長、数原洋二が東京都品川区で誕生しました。父は翌年大和鉛筆(のちの三菱鉛筆)工場長に就任する数原三郎です。
鉛筆製造の黎明期(明治時代)
日本の鉛筆工業は明治初期から始まりました。1877(明治10)年の第一回内国勧業博覧会では日本製の鉛筆を出品した人物が二人います。ひとりは小池卯八郎(東京)、もうひとりは樋渡源吾(仙台)です。
仙台というのが目を引きますが、これには物語があります。1855(安政2)年に仙台藩の石巻港にアメリカ海軍海尉ジョン・M・ブルック以下15名が搭乗した黒船が来航しましたが、このときに彼らから鉛筆が贈られ、初めて目の当たりにするこの鉛筆を、対応に当たった仙台藩の千葉寛平が詳細にスケッチを残しました。それらを元に樋渡源吾は翌1856(安政6)年に日本で初めて鉛筆を作った言われています。
また東京のほうの小池卯八郎は違うルートで鉛筆製法を学びます。1873(明治6)年にウィーンで開催された万国博覧会に派遣された明治新政府の17名の伝習生のうちの2名、藤山種廣と井口直樹がヨーロッパから鉛筆製法を持ち帰りました。藤山はチェコのコヒノール(KOH-I-NOOR)鉛筆製造所の研究成果を、また井口はドイツのヒットワイス鉛筆製作所の製造機械の図解を模写を持ち帰ったと言われます。この二人から技術を伝えられたこの小池卯八郎は、1874(明治7)年に練馬広徳寺付近(銀座との説も)に小池鉛筆製造所を開設しました。
樋渡にしても小池にしても小規模な工場でありました。本格的な鉛筆製造工場が設立されたのは、1887(明治20)年に佐賀藩巨勢村高尾出身の眞崎仁六が東京市四谷区内藤新宿1番地(現在の新宿区内藤1番地)に開設した眞崎鉛筆製造所となります。眞崎仁六はもともと起立工商会社の社員でした。起立工商会社は大隈重信が佐賀の茶商であった松尾儀助に働きかけて美術品や物産品を輸出するため、1874(明治7)年に設立した貿易会社です。その社員であった眞崎が1878(明治11)年にパリで開催された万国博覧会へ派遣され、現地で出品されていた鉛筆を見て強い印象を受け帰国後設立した会社が眞崎鉛筆製造所となります。
鉛筆製造の工業化(大正時代)
明治の終わりころには鉛筆製造業者は40社あまりとなり、1912(明治45)年に東京鉛筆製造組合が創設されます。さらに大正初期には、国産鉛筆が6割、輸入鉛筆が4割とされていましたが、1914(大正3)年に第一次世界大戦が勃発するとドイツからの鉛筆輸入が途絶え、国産の鉛筆工場が一気に増加しました。それどころか海外マーケットにおいても、ドイツ製鉛筆が占めていた市場を日本製鉛筆が代替するようになり、日本の鉛筆業界は未曽有の好景気となります。海外の最新生産設備が導入され工場の機械化・工業化が一気に進みました。
そのような好景気を背景にして、1918(大正7)年に設立された新興鉛筆工場が大和鉛筆でした。出資者は横浜実業界の第一人者であった原富太郎(三渓)です。生糸と絹の輸出で莫大な財を築いた横浜の豪商、原善三郎の孫婿で、原財閥総帥、帝国蚕糸社長のほか、富岡製糸場をはじめ有力な製糸工場をもっていました。現在の横浜銀行にあたる横浜興信銀行の頭取もつとめていました。横浜本牧の三渓園にその名残をとどめます。
同志社から台湾総督府勤務を経てサミュエル商会(現在のロイヤル・ダッチ・シェル)の社員となり、実業家となった近藤賢二が大和鉛筆の社長に就任し、蔵前高等工業学校の応用化学科の工場で色鉛筆の色素の研究をしていた高崎均が工場長を務めることとなりました。大和鉛筆は黒鉛筆ではなく、色鉛筆を主体とした事業を展開しました。しかし高崎は会社発足の翌年、1919(大正8)年に近藤との意見の相違で会社を去ります。その後1922(大正11)年に大和鉛筆の工場長となったのが、東京工業学校(現在の東京工業大学)応用化学科出身の数原三郎です。
のち1925(大正14)年4月に眞崎鉛筆製造所と大和鉛筆が合併し、眞崎大和鉛筆株式会社が発足します。その合併の直前、眞崎鉛筆製造所の創業者、眞崎仁六が急逝し、新合併会社の社長には大和鉛筆の社長であった近藤賢二が就任しました。また数原三郎は眞崎大和鉛筆の発足にあたり取締役に就任しています。
三菱鉛筆と三菱財閥は無関係
ところで眞崎鉛筆が使用していた商品ブランドのひとつが「三菱」でした。岩崎弥太郎の三菱財閥とは全く関係がありません。1901(明治34)年に眞崎鉛筆が逓信省に「局用鉛筆」を納入された際に使用された名称で、1903(明治36)年に「三菱」の名称と「スリーダイヤ」のロゴマークが商標登録されています。三菱財閥が商標登録をしたのは1914(大正3)年ですので、その11年前の出来事ということになります。つまり眞崎鉛筆のほうが先に「三菱」という名称と、「スリーダイヤ」のロゴを商標登録したわけです。
終戦直前の1945(昭和20)年7月に数原三郎は眞崎大和鉛筆の社長に就任しました。1948(昭和23)年4月には京都大学工業化学科を卒業し同大学院を出た、三郎の次男数原洋二(26)が三菱鉛筆に入社します。1952(昭和27)年には眞崎大和鉛筆は三菱鉛筆と社名を改称します。そして1960(昭和35)年2月に数原三郎(70)は息子の数原洋二(39)に社長を譲り会長に退きました。