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【百年ニュース】1921(大正10)8月22日(月) 名古屋市が周辺16町村を併合し大都市に。市域は倍増し当時の東京市の2倍に,人口は60万人となり東京市の1/3に達した。ただし今回は下一色,川中,萩野,荘内,天白の5町村は合併せず。名古屋は大戦中に重工業が発展し都市計画が進んだ。
名古屋市が周辺16町村を併合し大都市に。市域は倍増し,当時の東京市の2倍の規模。また人口は60万人となり東京市の1/3に達した。ただし今回は下之一色、川中、萩野、荘内、天白の5町村については合併せず。第一次大戦中に重工業が発展し都市計画が進みました。
名古屋の都市計画と言えば「道路」が有名です。大正期は全国的に鉄道の整備が進んだ時代として知られているわけですが、名古屋大学の馬場俊介先生の1990年の論文「明治大正期名古屋の道路整備とその財源」によれば、名古屋では鉄道優先の時代においても限られた予算を道路整備に振り分けていたことが解明されています。
その大正期の都市計画の思いが引き継がれたのか、第二次世界大戦後の道路整備ににおいて、有名な100m道路が作られました。名古屋市の中心部を走る「久屋大通」と「若宮大通」。この2本は道幅が100mあるため「100m道路」と呼ばれています。幅員100m以上の道は日本で3本しかなく、そのうちの2本が名古屋市内に存在しています。残る一本が広島です。
100m道路を発案したのは、かつて内務省名古屋土木出張所長だった田淵壽郎という土木工学者でした。この計画に対し、市民からは「飛行場でもつくるつもりか」「そんな広い道路はいらない」という声や、道路をつくるために墓地を集団移転させることへの批判が出ていたそうです。市は戦災復興計画の一環として、火災発生時の延焼防止、市民の避難場所確保、クルマ社会の適応のために計画されたのが100m道路の建設でした。
ところでこの「100m」根拠についてですが、 これはあまり合理的な計算によるものではなく、「まぁ100という数がきりがよい」からなのだとか。これは名古屋計画局『戦災復興誌』の座談会に書かれている記述ですが、今のような交通量調査や資料もなく、勘で決めたとのことです。
当初は東京、川崎、横浜、名古屋、大阪、神戸、広島の7都市、合計16本建設される予定だった100m道路。しかし、国の財政などの変化を受けて戦後復興計画は見直され、計画は大幅に縮小。名古屋市は戦後早い段階から復興計画の策定に着手していたことが影響しまして、100m道路は1964年に完成。最終的に計画が実現したのは広島市を含めた3本のみでありました。
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