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【百年ニュース】1921(大正10)9月2日(金) 欧州歴訪を無事終えた皇太子裕仁親王を乗せた御召艦香取が予定より1日早く東京湾に到着。館山湾内に投錨。陸海を埋め尽くす奉迎者が君が代と万歳で迎える。夜は館山・北条両町民により館山海岸にて奉祝の紅提灯の大行列。皇太子は万歳奉唱のたびに挙手の礼。

欧州歴訪を無事終えた皇太子裕仁親王を乗せた御召艦香取が予定より1日早く東京湾に到着しました。館山湾内に投錨し、陸海を埋め尽くす奉迎者によって君が代と万歳で迎えられました。昭和天皇実録によれば、湾内沿岸には数万人の奉迎者が国旗を振って万歳を連呼したとのことです。

午後になりますと、千葉県下の小学校、男女中等学校生徒ら約3万人が旗行列を行いました。夜は館山・北条両町民により館山海岸にて奉祝の紅提灯の大行列。皇太子は万歳奉唱のたびにその方向に向かって、挙手の礼を返しました。当時の青年皇太子裕仁親王の人気はすさまじいものがありました。

裕仁親王は1901年〈明治34年〉4月29日の生まれですので、年齢は20歳ということになります。

ところで順調な旅により1日早く東京湾に到着した裕仁親王ですが、そのまま午後には横浜に上陸可能だったものを、わざわざ館山で一泊したことになります。このあたりの事情が当時の首相原敬の日記に残っています。

前日9月1日に牧野信顕宮内大臣より相談があり、皇太子本人は半年に及ぶ旅行のあとなので、少しでも早く上陸したいところだろうが、到着に関連する式典は3日ですでにセット済みなので、申し訳ないが館山湾で一昼夜過ごしてもらうしかない、と原が判断したことが伺えます。その記述を読んでみたいと思います。

牧野(伸顕*)宮相より電話にて,皇太子(裕仁親王*)殿下は予定より早く(順潮および平穏のため)2日午前8時には館山湾に入港せらるべき情報なるも,入京はご予定の通り3日と相願うを可とす(2日午後に御入京出来得ざるにあらざるも),それにて如何にやと言うにつき余はすでに御入港のうえは,なるべく速やかに御上陸ご希望と拝察し奉るに,ほとんど一昼夜館山湾に御停泊はいかにも恐懼の至りなれども,人民御歓迎の準備すべて3日と予定されたるに,にわかに2日午後御上陸御帰京にては人民の失望も察せられるにつき,恐れ多きことながら,ご予定通り3日御入京となさるるほかなかるべしと宮相に同意したるに,牧野はしからば無線電信にて殿下に言上し,また日光(田母沢御用邸の大正天皇と貞明皇后*)にも奏上すべしと言いたり,やむをえぬ次第なり。

原奎一郎編『原敬日記 第五巻 首相時代』福村出版,1981年,432頁 〔*は引用者註〕

昭和天皇にとって青年時代のこの欧州訪問は生涯忘れ得ぬ貴重な体験となりました。特にイギリスにおいて、国王ジョージ5世との交流や、ケンブリッジ大学の憲法学者タンナー教授の講義などを通じ、立憲王国における王の権利の制限、国王の公の意思は議会および世論によって裏書される必要があること、イギリスの国王はときに内外の政策を調節あるいは緩和することがあることを学びました。イギリスの立憲君主制の本質を垣間見たことは、のちの昭和天皇の日本の国体の理解に大いに影響を与えました。

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ところで御召艦「香取」は英国ヴィッカース社バロー造船所で建造され1906(明治39)年に竣工しました。艦名は千葉県の香取神宮に由来しています。また随艦「鹿島」も英国の別の軍需企業アームストロング社が製造したものでした。皇太子裕仁親王渡欧に当たり、日英同盟の誇示と英国王室との友誼を示すため、国産艦ではなく英国で製造された2隻の戦艦が遣欧艦隊にチョイスされました。

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吉塚康一 Koichi Yoshizuka
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