【百年ニュース】1921(大正10)9月6日(火) 朝鮮の李王職次官,国分象太郎が急死。享年59。1862(文久2)長崎県対馬市厳原町出身。草梁館語学所出身の朝鮮語通訳官(通詞)。朝鮮語に堪能な外交官として活躍。伊藤博文の日韓交渉でも通訳を務めた。朝鮮総督府で人事局長。李朝の信任厚く李王職次官を務めた。
朝鮮の李王職次官であった国分象太郎が急死しました。国分は朝鮮語に堪能な外交官として著名な人物で,伊藤博文の日韓交渉などでも通訳を務めました。1910(明治43)年に朝鮮総督府が出来ますと人事局長。李朝の信任が厚かったため,宮内大臣管轄下で朝鮮の旧王族を李王職に転じまして当時李王職長官に次ぐNo.2の次官を務めていました。なお李王職長官は李朝一族の属する貴族政治家で、親日派でもあった李載克(イ・ジェグク)でした。
さて李王職次官の国分象太郎は、前の晩すなわち5日の晩に京城(現在のソウル)朝鮮ホテルで開かれました結婚式の際中,以前から患っていた腸の腫瘍が腸捻転を起こし悶絶状態になりました。すなわち腸が捻じれて閉塞を起こす危険な症状です。この結婚式は,朝鮮総督府逓信局の勅任技師だった岡本桂次の子息と,南大門駅の駅長であった一瀬氏の令嬢のもので,国分象太郎は媒酌人でもありました。朝鮮総督の斉藤実も臨席していました。国分象太郎は夜間も苦悶を続けましたが,翌6日の午前11時についに逝去しました。享年59歳でした。
国分象太郎は1862(文久2)長崎県対馬市厳原町(いづはらまち)で生まれました。対馬は歴史上日本と朝鮮半島の架け橋であり続け,近世には朝鮮との交流に不可欠な朝鮮語を学ぶための藩の学校である「朝鮮語養成所」が創設されました。1727(享保12)のことです。朝9時から午後3時まで,3年間に渡り朝鮮語を学ぶという学校で,日本初の語学学校ともされています。この朝鮮語養成所があったのが,まさに国分象太郎の出身地であります対馬市厳原町(いづはらまち)になります。朝鮮語の通訳になることが運命づけられていた人生と言えるかも知れません。
明治になりますと朝鮮との外交は対馬藩ではなく,外務省が直接担当するようになります。1872(明治5)年10月25日に対馬藩の「朝鮮語養成所」は,明治政府直轄の養成機関になる「韓語学所」となります。韓語の韓は韓国の韓です。そこで学んでいた少年が国分象太郎(10)ということになります。この「韓語学所」は翌年釜山に移りまして,名前も「草梁館語学所」と改められました。草梁と読みまして、釜山の古い地名ということです。15世紀以来,釜山で日本の使節を応接するために設置された「草梁倭館」で有名です。
1880(明治13)年「草梁館語学所」は最終的に東京外国語学校(現在の東京外国語大学)の朝鮮語学科になりました。明治期は現在以上に朝鮮半島への関心が高かった時代でありました。よって朝鮮語を学ぶ日本人も数多くおりまして、そのなかでも国分象太郎は明治後半から大正にかけて、時代を代表する朝鮮半島専門の外交官でありました。なんと約40年間の朝鮮半島に住み、もちろん家族もすべて帯同致しまして、外交官としての全生涯を朝鮮半島のために捧げた人物でありました。