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【百年ニュース】1921(大正10)11月16日(水) 銀行家,実業家の妹尾親尚が福岡で誕生。京都帝大法学部政治学科在学中に学徒出陣。陸軍主計少尉。戦後安田銀行(富士銀行→みずほ銀行)入行。1975(昭50)専務。1978(昭53)笹川良一,加藤暠による岡本理研ゴム(現オカモト)株買占事件を解決し翌年同社社長就任。

銀行家・実業家の妹尾親尚せのお ちかひさが福岡で誕生しました。1939(昭和14)年に中学修猷館(現在の福岡県立修猷館高等学校)を卒業し、京都帝国大学法学部政治学科に進学、在学中の1943(昭和18)12月に学徒出陣。翌年卒業となり陸軍主計少尉となりました。

復員後の1946(昭和21)年に安田銀行に入行。安田銀行はのち富士銀行と名称を変更し、現在では統合でみずほ銀行となっています。1970(昭和40)年に取締役名古屋支店長。1973(昭和48)年には大阪支店長、常務取締役を経て、1975(昭和50)年に専務取締役に就任しました。

1978(昭和53)年「右翼のドン」笹川良一グループと加藤あきらの誠備グループによる岡本理研ゴム(現オカモト)の株買い占め事件が発生します。買い占められた株は2,400万株、発行株式数の約25%に上りました。当時の相場で130億円になります。創業者の岡本巳之助みのすけは右翼による買い占めに困り果てます。

この事件で使われたのは「踏み上げ」とよばれる手法です。現在では違法ですが、当時は合法的な仕手の手段でした。買い占め前のタイミングで、株式市場で様々な情報を操作して悪い材料が流されます。それにより多くの投資家の空売りを誘い出します。信用取引で売りが膨らんだところで、その銘柄を買い付けると、流通する株が極端に少なくなります。結果として売り方は高値で信用取引の買戻しをせざるを得なくします。

株価の混乱が必至となったところで、買い占めグループはその会社に対して直接交渉による直取引、いわゆる「解け合い」を持ち掛けます。今回の岡本理研ゴムでは、ここで右翼のドン笹川良一の隠然たる政治力が使われます。裏社会に通じた顔役の登場で、市場外での取引で決着せざるを得ない状況に会社を追い込むわけです。

当時の岡本理研ゴムのメインバンクは富士銀行でした。6月の株主総会が近づくなか、岡本巳之助は富士銀行に相談し解決を計ります。1978(昭和53)年5月に富士銀行・安田信託銀行・安田生命保険・丸紅など芙蓉グループの資金援助、すなわち肩代わりにより笹川良一から大半の株式2,000万株を買い戻しました。その結果丸紅が保有株式200万株で筆頭株主となりました。

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岡本理研ゴムは翌月6月にメインバンクである富士銀行から専務の妹尾親尚を取締役副社長として招き、その翌年1976(昭和51)年6月には妹尾は同社社長に就任します。創業者の岡本巳之助は会長に退きました。しかし当初から妹尾はワンポイント・リリーフの社長とされていたようで、外部招聘の社長の任期は二期四年との約束があったようです。

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1983(昭和58)年に妹尾は取締役相談役に退き、副社長であった創業者の長男、岡本多計彦たけひこ副社長(43)が代表取締役社長に就任しました。この人事は当時、岡本創業家への大政奉還と呼ばれました。

なお1979(昭和54)年、岡本理研ゴムの株買い占め騒ぎを起こした「笹川グループ」関連の税務調査を進めていた国税当局は、加藤暠が率いる不動産会社「日誠総業」の申告内容に25億円の申告漏れがあったと指摘、岡本理研ゴムの大量株買い占めと株価暴騰事件に絡んで、巨額の株売買利益が笹川良一グループと日誠グループにもたらされていたことが発覚しました。

なお妹尾親尚は、2012(平成24)年に多臓器不全のため90歳で死去しました。

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