【百年ニュース】1922(大正11)年1月17日(火) 米国の政治家ニコラス・カッツェンバックがペンシルベニア州フィラデルフィアで誕生。プリンストン大とイェール大で学びシカゴ大学法学部教授に。1961ケネディ政権で司法副長官。キューバ危機の海上封鎖で法的根拠創案。アラバマ大学への黒人学生入学主導。
生い立ち
米国の政治家ニコラス・カッツェンバック(Nicholas Katzenbach)がペンシルベニア州フィラデルフィアで誕生しました。父親はニュージャージー州司法長官を務めたエドワード・L・カッツェンバック、母親はニュージャージー州教育委員会の最初の女性委員長として知られているマリー・カッツェンバックでした。また彼の叔父フランク S. カッツェンバックは、ニュージャージー州トレントン市長およびニュージャージー州最高裁判所の裁判官を務めました。
ニコラス・カッツェンバックはフィリップス・エクセター・アカデミーで学んだ後プリンストン大に入学しましたが、1941年12月の真珠湾攻撃に際して3年生で米国陸軍に入隊しました。陸軍航空隊にとして北アフリカに出征し、第310爆撃群第381爆撃飛行隊に航法士として活躍しました。1943年2月 23日、ニコラス・カッツェンバックの搭乗したB-25ミッチェル爆撃機が北アフリカ沖の地中海上空で撃墜され、イタリアとドイツの捕虜収容所で終戦まで2年以上を捕虜として過ごしました。
復員直後の1945年に優秀な成績でプリンストン大学を卒業すると、イェール大ロースクールに進み、さらに1947年から2年間ローズ奨学生としてオックスフォード大学内のベリオール・カレッジに留学しました。そして1950年にニュージャージー州の弁護士資格を、1955年にコネチカット州の弁護士資格を取得しました。
1950年から2年間空軍長官の法律顧問として政府機関に勤務したあと、母校のイェール大学法学部助教授、そしてシカゴ大学法学部の教授として勤務していましたが、1961に再び米国司法省で法律顧問局の司法長官補佐として政府に入り、1962年にジョン F. ケネディ大統領によって司法副長官に任命されました。
アラバマ大学の黒人登録拒否事件
1963年6月11日ニコラス・カッツェンバック司法副長官が全米の注目を浴びることになります。当時盛り上がりを見せていた公民権運動のなかでもハイライトのひとつと言えるアラバマ大学の黒人登録拒否事件です。アラバマ州知事ジョージ・ウォレス(George Wallace)が黒人学生2人の授業登録を防ぐために、大学の講堂の扉の前に立ちはだかった事件です。
黒人学生ヴィヴィアン・マローンとジェームズ・フードの二人がこの日アラバマ大学に登録書類をもってアラバマ大学に到着しますが、人種主義者であるウォレス知事がマスコミ集めてこれを阻止する政治的パフォーマンスを行いました。派遣されたニコラス・カッツェンバック司法副長官は、ケネディ大統領の行政命令 11111号(Executive Order 11111)を直接ウォレスに伝えます。
この命令によりアラバマ州の州兵の指揮権は、ウォレス知事から連邦政府に移り、数時間後に州兵司令官ヘンリー・グラハム(Henry Graham)がアラバマ大学に到着しました。彼は知事に対し、米大統領の命令に基づいて入口から退くことを要請、最終的には知事は退去し、二人の黒人学生たちの大学への登録が無事に実現しました。
晩年
1969年ニコラス・カッツェンバックは政府機関を辞し、IBMに転職しました。それから1986年まで同社で法律顧問を務めますが、司法省がIBM分割を求めて提起した長期にわたる反トラスト訴訟を担当します。またFBIが関与したIBM産業スパイ事件当時はIBMの副社長の地位にありました。
1986年ニュージャージーの大手法律事務所リッカー・ダンツィグ(Riker Danzig LLP)のパートナーとなり、1991年にBCCI銀行(Bank of Credit and Commerce International)会長に、また2004年には当時全米第2位の長距離通信会社であったMCIコミュニケーションズの会長となりました。
2006年にMCIがベライゾン・コミュニケーションズに買収されたあとは引退し、ニコラス・カッツェンバックは妻のリディアとともにニュージャージー州プリンストンで引退生活を送りました。夏はマサチューセッツ州ウェスト ・ティズベリーのマーサズ・ヴィンヤードにある別荘で過ごしました。なお息子のジョン・カッツェンバックは人気作家として有名です。2012年5月8日にニュージャージー州スキルマンで死去、享年は90 歳でした。