【百年ニュース】1921(大正10)10月16日(日) 日米野球の架け橋,キャピー原田がカリフォルニア州サンタマリア近郊で誕生。本名原田恒男。戦後GHQで日米プロ野球親善試合に奔走し,のち読売巨人軍の国際担当となり与那嶺要を獲得。また日本人初のMLBプレーヤー村上雅則の渡米を実現した。2010没,享年88。
戦後日米野球の架け橋として重要な役割を果たした日系アメリカ人、キャピー原田がカリフォルニア州サンタマリア近郊で誕生しました。本名は原田恒男。
父親の原田常ヱ門と母親のクニは、1904(明治37)年に和歌山県からカリフォルニアに移住した移民でした。両親は野菜を作る農民として懸命に働き、自動車を買うまでに裕福になりましたが、大恐慌の到来とともに運命が暗転します。
1934(昭和9)年に母親のクニが亡くなると、父親の常ヱ門は7人の兄弟を男手で育てるのは無理だと判断し、13歳の長男の恒夫を残して一時帰国し、親類に預けることとしました。一人残された恒夫は深夜に6時間かけてロスアンゼルスを往復して野菜を売りながら、昼間は学校に通いました。
原田恒夫は運動神経に恵まれ、日系人で作る野球チームやフットボールのチームで活躍していました。そこでキャプテンを務めていたことから、いつしかキャピー原田と呼ばれるようになりました。
太平洋戦争中はアメリカ陸軍に志願し、敵国語であった日本語の情報将校として活躍しました。戦後はGHQの一員として来日し、経済科学局長マーカット少将の副官でした。マーカット少将も原田も野球好きだったため、日本人がアメリカ人に親近感をもつために、日米プロ野球親善試合を開催することになりました。
1948(昭和23)年にキャピー原田は歌手の暁テル子と結婚しました。媒酌人は大映の永田雅一社長で、原田と永田は非常に親しかったことが知られています。原田が暁テル子と結婚した1948(昭和23)年、永田は公職追放になっていますが、間もなく復帰します。この追放解除にはGHQ上層部に通じる原田のルートが活きたとされています。
のち原田はGHQを退職すると、東京を拠点に幅広い人脈を活かして、日米のプロ野球を結びつける仕事に邁進します。読売巨人軍の国際担当となり、ハワイの日系人プロ野球選手、与那嶺要を獲得。また日本人初のMLBプレーヤー村上雅則の渡米を実現したのもキャピー原田です。1954(昭和29)年にニューヨーク・ヤンキースのスーパースター、ジョー・ディマジオがマリリン・モンローとの新婚旅行で日本にやってきたときも、日本での日程をアレンジし、また通訳をしたのがキャピー原田でした。
野球以外でも、当時人気絶頂だったプロレスラー力道山の事業会社のひとつである「リキ観光」の専務に就任するなど、プロレス興行にも接近しました。しかし1963(昭和38)年に力道山が刺殺されたのち、キャピー原田の活動も徐々に野球選手のスカウトや商取引などで金銭トラブルが頻発するようなりました。妻の暁テル子とは1958(昭和33)年に離婚していました。1965(昭和40)年以降は故郷のカリフォルニア州サンタマリアに拠点を移しました。
キャピー原田は2010(平成22)年カリフォルニア州の病院で心不全のため死去しました。享年は88歳でした。