【百年ニュース】1921(大正10)10月30日(日) 中曽根蔦子(旧姓小林)が誕生。明治大学教授小林儀一郎の三女。日本女子大学国文科を卒業。戦時中海軍士官だった中曽根康弘と出会い,終戦を迎える年の紀元節,1945(昭和20)年2月11日に結婚。中曽根が首相となって以降はファーストレディとして活躍した。
のちの日本のファーストレディ、中曽根蔦子が東京で誕生しました。旧姓は小林蔦子。明治大学教授で理学博士・地質学者であった小林儀一郎の三女でした。この小林儀一郎は、群馬県前橋市の赤城温泉をボーリングで掘り当てたことで知られています。群馬県には義理の息子である中曽根康弘の選挙区になります。
さて日本の第71代内閣総理大臣となる中曽根康弘ですが、1918(大正7)年5月27日生まれですので、小林蔦子の3歳年上ということになります。中曽根康弘は群馬県高崎出身、東京帝国大学法学部政治学科を卒業したあと内務省に入省しますが、戦時中は海軍短期現役制度で海軍主計士官として中尉として任官しました。呉鎮守府に配属され第二設営隊の主計長に任命されたあと、台湾の高雄に駐在しました。そして出張で東京に帰って来たときに、小林儀一郎の三女、小林蔦子と出会います。蔦子が日本女子大学国文科を卒業すると、終戦を迎える年の紀元節、すなわち1945(昭和20)年2月11日に二人は結婚しました。
のち中曽根康弘が衆議院議員となり、さらに首相として長期政権を築くと、日本のファーストレディとして国際的な知名度を得ました。中曽根康弘首相とアメリカのロナルド・レーガン大統領の良好な友情関係は「ロン・ヤス関係」として広く知られていますが、妻のナンシー・レーガンと中曽根蔦子の二人は同い年でその関係も良好でした。1985(昭和60)年4月24日と25日にはナンシー・レーガン大統領夫人の呼び掛けで、少年の麻薬防止のため約20か国の首脳夫人が米国に集まり、初の「ファーストレディ・サミット」が開催され、蔦子夫人も出席しました。
2012(平成24)年11月7日に死去、享年は91歳でした。また中曽根康弘元首相はその7年後、2019(令和元)年11月29日に享年101歳で亡くなりました。
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