父のこと10 マラカスとソンボレロ
結果的に最後となった父との電話からしばらくして、変なことが起こりました。僕は、1週間ほど毎日悪夢にうなされたのです。夢のストーリーは、誰かから、僕の友人が死んだということを聞くというものです。友人は、毎日変わりました。変な夢なので、メモ帳に記録していたのですが、あまりに続くので気味悪くなりページを破いて捨ててしまったら、もうその悪夢を見なくなりました。
それから数日して、僕は大阪にいきました。当時会社を辞め留学することを考えTOEFLを受けに行っていたのです。当時、僕が働いていた岡山では、TOEFLを受ける機会が少なかったので、わざわざ大阪まで受けに行っていたのです。
いつもなら、せっかく大阪まで来たのだから、ちょっと一杯飲んでから帰ろうということになるのですが、自分でも理由はわからないのですが、その日はなぜか早く帰ろうと思ったのです。ビールもつまみも買わずに、間に合いそうだと思ったので、新大阪駅で階段を駆け上がって、新幹線の自由席で帰りました。家に帰ると、妻から父が死んだことを知らされ、そこからとって返して、東京に向かいました。ギリギリ、新幹線の終電に間に合いました。もし、あの時、新大阪駅の階段を駆け上がっていなければ、その日のうちに東京の実家にたどり着くことはできなかったでしょう。
家に近づいて驚いたのですが、家の周りには報道陣が群がっていたのです。これでは家に入れません。無理に入ろうとすれば、報道陣をかき分けていかなければなりません。僕は、近くの公衆電話から家に電話をかけ、マスコミの人たちが撤収するまで外で待って、家に入りました。
そこで顔に白い布をかけられていた父と再会しました。病院での診察の後、母と家に帰る途中で急に心臓発作に襲われて死んでしまったとのことですから、苦しんだ顔をしているのではないかと想像していたのですが、白い布を取った時、父の顔はおだやかに笑っているかのようでした。
それから葬儀が終わるまでの数日間、僕は、多くの父の仲間たちにお会いしました。迫力満点の大物俳優さんたち、幾つになっても美しい女優さんたち、若い役者さんたち、父が晩年に始めた墨絵の仲間たち。様々な人たちが父を偲んでくれました。
通夜や葬儀に来ることができないのでということで、家に来てくれて線香をたむけてくれた方も何人もいました。
ガッツ石松さんは、海外での仕事の帰りの機内で父の死を知ったとのことで、空港からそのまま花を持って我が家に来てくれました。晩年に共演した長渕剛さんも忙しい中訪ねてきてくれました。みなさん静かに父との思い出を語ってくれました。岡江久美子さんは、場を明るくしてくれました。いつの間にか我が家のキッチンのどこに何があるのかを把握していて、「はい、お母さん、お茶でも飲んで!」とお茶を入れてくれたりしました。あんなに楽しい方が、後にコロナで亡くなるなんて、とても想像できませんでした。
葬儀に来てくれた方々も目立たない服装で、さっと来てさっと帰られました。みんな紳士淑女で礼儀正しく、物静かでした。
そして、父の死後、意外にも、我が家には笑顔が絶えませんでした。従兄弟たちがやってきて父の思い出話になるのですが、どうしても楽しかった思い出話になってしまい、しんみりとした雰囲気にならないのです。
ただ、一度だけ、妻と二人でいる時、どうしようもなく涙が止まらなくなったことがありました。それを見た妻が「カラオケ行こう」と言い、僕ら二人で出かけ2時間ほどカラオケを歌って家に戻りました。あの時が、父とのお別れの時だったのかもしれません。
葬儀も終わり訪ねてくる人もいなくなると、徐々に、父のいない新たな日常が始まっていきました。
僕は、3年後、会社を辞め、アメリカに留学することになりました。会社を辞めるか留学するかで最後の最後まで悩みました。そんな時、父の穏やかな死に顔を思い出し、あんな顔で死にたいものだと思いました。父は自分の人生に満足して逝ったのでしょう。僕も父のように、最期の瞬間に自分の人生に満足していたいと思い、最終的に留学を決意しました。
しかし、実際に留学してみると、アメリカの大学院での勉強は、想像以上にきついものでした。卒業できないかもしれないと思うことは何度もありました。いよいよ危ないという状況で、僕は奇妙な夢を見ました。
夢の中で僕は、昔の川崎駅のプラットホームに向かうため、階段を降りています。すると、向こうから変な男が歩いてきます。太めの身体を紫色のピッタリした衣装で身を包み、大きなソンボレロをかぶって、腰をくねらせマラカスを振りながら、こちらに近づいてくるのです。
僕は、目を合わせたらまずいと思い、下を向いて階段を降りていきました。その男は階段を登ってきます。すれ違いざま、どんな人なのだろうと思い、僕はその男を見ました。男もこちらを見ました。なんとその男は、父だったのです。父は、こちらを見てニヤッと笑うと、再び腰をくねらせながら階段を登っていきました。
その夢を見て僕は笑って目覚めました。父は、ベサメ・ムーチョというメキシコの歌が好きでした。だから、メキシコ人の格好で夢に出てきたのでしょうか?夢の中でも父はジョーク好きでした。
このあと、根拠はありませんが、なんとかなると思えました。そして、大学院も無事修了することができました。
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