「言葉が出ない・・繊細なアプローチ その1」
留学時代の話です。僕はCIIS(カリフォルニア統合学研究所)という大学院の統合カウンセリング専攻に留学していました。3年間のコースで、どのクラスも厳しく、授業中緊張しっぱなしでした。それでも、なんとか授業中に発言できるようになってレポートも評価され、やれやれ、これでなんとか卒業(修了)できるかなと思い始めた頃、 僕は、統合カウンセリング専攻の必須クラスの中で最もきついと言われる「カップルズ・セラピー」のクラスを履修しました。担当教授は、ジュディー・ヘスです。ジュディーのクラスは、学生たちにクライアントやセラピストを演じさせるという形式で進められるのです。これまでのジュディーのクラスでは、小グループでのワークが多く、なんとか乗り切ることができました。
しかし、このカップルズセラピーのクラスでは、学生一人一人が、クラス全員の前で、セラピストとして、模擬セラピーを二回行わなければならないのです。クライアント役も学生で、カップルを演じます。クライアント役は、なんとかこなしました。しかし、問題はセラピスト役のときです。セラピストは、基本二人制でした。
一回目のセラピスト役は散々でした。もう一人のセラピストのジョイが、とてもレスポンスが早く、僕はついていけなかったのです。僕は、セラピーの間、頭の中が真っ白になりました。「何か言わなければ」と思うのですが、言葉が出てこない。ほとんど有効な質問もコメントもできず、セラピーが終わりました。僕は、何もできず、ジョイが一人でセラピーをしたようなものです。
模擬セラピーの後の学生たちからのフィードバックも散々でした。「落ち着きが無い」、「自信が無さそうだ」、「どっちがクライアントかセラピストか分からない」などの評価ばかりだったのです。Good Point は、ほとんどありませんでした。アメリカ人はレスポンスが早く、どうも呼吸が合わないというのが上手くいかなかった理由なのだと考え、ジュディーに、次回はひとりでセラピストをやらせてほしいと申し入れ、ジュディーは、了承してくれました。
数週間後、僕は、再びセラピスト役となったのですが、やはり一回目と同様に緊張してしまい、全くセラピーになりませんでした。クライアント役二人は戸惑った表情で、むしろ僕を気遣うようなそぶりを見せました。これでは、どちらがセラピストかわからない。僕の緊張は、「もう一人のセラピストとのペースの違い」ではなかったのです。先生やクラスメートから見られていると感じた途端、僕は極度に緊張してしまい言葉が出なくなってしまうということだったのです。
クラスの後、僕は、ジュディーとティーチングアシスタントのラムとミーティングをしました。ジュディーからは、はっきりと「あなたのセラピーは、プラクティカム(実習)のレベルに達していない」と言われました。ただ、その後ジュディーは、「こうして話していると、英語も問題ないし、普通に話ができるのに、どうして模擬セラピーの時は、上手くいかないの?」と言うのです。「わかりません」と僕は答えました。ジュディーは、「目を閉じて、クラスの中で、みんなの前に立ってセラピーを行なったときのことを思い出してみて。そのときの身体の反応に注意して、同じような反応になった過去の体験があるかどうか、確かめてみて」と言うのです。そのとき、思いもかけない記憶が蘇えりました。
それは、小学校二年のときの経験でした。なぜか、そのときの情景が、今ここで起こっているかのように、ありありと思い出されたのです。
小学校二年のある日、同級生山口くんの靴が盗まれたと言う事件が起きました。当然、ホームルームが召集され、話し合いという名の犯人探しが始まりました。僕は、「はやく犯人が名乗り出てきてあやまればいいのに」と思いながら、そのホームルームに参加していたのです。犯人は一向に名乗り出ず、先生もイライラし始めました。そのあたりから、どうもクラスの雰囲気がおかしくなり始めました。家が山口くんと近く、よく一緒に帰っていた僕が犯人なのではないかと、クラスメートの何人かが疑い始めたのです。何人かが、僕の方をチラチラと見ます。そして、その数が次第に多くなっていきました。最初のうちは、向こうを向けと手で払う仕草をする余裕があったのですが、僕を見るクラスメートが増えると、さすがに不安になりました。
そのとき、一番前に座っていた女子が手を挙げたのです。そして、「一昨日、山口くんと向後くんが喧嘩をしていました」などと余計なことを言うのです。この一言で、クラスメート全員が僕が犯人だと確信することになりました。
僕は、絶体絶命の状況に追い込まれたのです。こうなると、先生に助けを求めるしかありません。僕が顔を上げると、先生も僕を見ていました。僕は、救われたと思ったのです。先生は、僕がそんなことをするはずがないことを知っているはずだと思っていました。
しかし、先生が発した一言は、「向後、正直に言ったら許してやるよ。みんなも、許してあげるよな?」でした。
その瞬間思考がストップし、動けなくなり、その後全てを諦め、「僕がやりました」と言いました。その場を乗り切るには、それしかないと思ったのです。先生は、「靴はどうした?」と聞いてきました。そんなこと知っているわけがありません。しかし、何か言わなければなりません。「焼却炉で焼きました」と答えました。こうして、僕は、靴を盗むだけではなく焼却炉で焼いたという問題児となったのです。
その話をした後のジュディーの表情がとてもやさしかったのをお覚えています。ジュディーによれば、私の体験は大変なトラウマになっているかもしれないとのことでした。そして、「三週間後の最後のクラスで、もう一度チャンスをあげるので、セラピーを受けて、小学校二年のときのトラウマ体験についてワークしなさい」とアドバイスされました。別れ際にジュディーが言った言葉は、「It's not the end of the world(この世の終わりじゃないのよ)」でした。
CIISの修士課程は、三年のコースです。他のアメリカの臨床心理系の大学院の多くも、同じようなシステムをとっています。理論や演習(クラス内でのロールプレイングなど)やフィールドワークで構成されるクラスは、基本二年で終わります。三年目は、主にプラクティカムという実習とスーパービジョンに当てられます。プラクティカムでは、スーパービジョンを受けながら、実際にセラピーを提供する施設で、セラピストとしてクライアントを診ることになるのです。
もし、ジュディーのクラスを落とすようなことになると、プラクティカムには進めません。それでも、もう一度ジュディーのクラスを履修して、プラクティカムに進むということも可能ですが、成績が規定に達しなければ、退学を勧告される場合もあります。
僕は、なんとしても三週間後に、ジュディーのクラスで、セラピストをやり切らなければならなかったのです。
それ以外のルールで、「学生は、修了までに、規定時間のセラピーを受けなければならない」というものがあります。 CIISでも修士号取得までに四十五時間の個人セラピー受診が義務付けられていました。僕は、すでに、このセラピーを始めていました。ここで、小学校2年の時の出来事を扱ってもらうことになります。
セラピーの目的は、
一、学生自身がクライアントを経験することにより、クライアントの気持ちを共感的に理解できるようになる、
二、セラピストのアプローチを学ぶことができる、
三、学生自身の自己探求と自己成長となる。
この中で、この三週間で、集中的に取り組まなければならないのは、「自己探求と自己成長」です。
人にはそれぞれ、固有の心理的傾向があります。例えば、僕の場合、人前で何かしようとすると、極度に緊張してしまう傾向があり、それはジュディーのクラスで顕著になりましたが、実は、以前からあった傾向なのです。そうした傾向を知り、その意味を知り、対処法を学ばなければ、実際に自分がセラピーを行う際に、適切な対応が取れなかったり、場合によっては、クライアントを無意識のうちに傷つけてしまう可能性すらあるのです。セラピストは、自分自身に気づいていなければなりません。
学校には、セラピストのリストがありました。どんなセラピーを行うのかの簡単な説明が書いてあるものです。学生は、そのリストの中から、自分に合いそうなセラピストを探し、アポイントをとり、セッションの日時を決め、セラピー開始となります。
僕のセラピストは、ルサ・チューという中国系アメリカ人で、拠り所としている理論は自己心理学と人間性心理学で、適宜さまざまな手法を適用していました。僕は、直感で彼女に決めました。ジュディーのクラスで躓く直前でセラピーを始めていたのは、いいタイミングだったのです。
カップルズセラピーのクラスで、ジュディーが僕に、「目を閉じて、クラスの中で、みんなの前に立ってセラピーを行なったときのことを思い出してみて。そのときの身体の反応に注意して、同じような反応になった過去の体験があるかどうか、確かめてみて」と言ったのは、ソマティックという身体の反応に注目するセラピーのテクニックです。
僕が自分の身体の反応だけに注意をむけていると、この身体反応は、自分の小学校二年の時の靴泥棒事件の時と同じだったことに気づきました。とても、繊細で静かなアプローチですが、そこから引き出されたのは、重要な過去の体験でした。
このように、別にハードなワークをしなくても、とても大きな効果が起こることがあります。今後、何回かに分けて、僕自身の「人前で喋れなくなる」症状がセラピーにおける繊細なアプローチで回復していった様子をお伝えしていきます。