「ハリガネムシ」吉村萬壱 著 文春ウェブ文庫
慎一は高校の倫理の教師ですが、「倫理の教科書には、あたかも国連が正義の使者のように扱われているが、しかしこの世の悪を根絶するという発想そのものがナンセンス極まりないと思った」という考えを持っています。彼にとって、世界は欺瞞に満ちているものなのかもしれません。表面は美しいけれど、それはプラスチックのようにツルツルで表情のないものと写っているのではないかと、僕は感じました。
とても印象に残ったシーンがあります。慎一が風俗嬢のサチコとの結婚を家族に報告に行った時の母とのやりとりです。
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「スッと言えんような娘なんか?」
「いや……普通の娘やで」
「どこで知り合ったんや?」
「喫茶店や」
「喫茶店で働いてる娘か?」
「そや」
「学生さんか?」
「いや、高校出て働いてるのや」
「高卒か」
「そや。高卒ではアカンのか」
「幾つの娘やの?」
「二十三歳や」
「そうか……」
これだけ聞くと母は以後この話題には一切触れず、私の好きな梨を剝き、父の昇進の話や趣味の日本舞踊の話をした。
・・・中略・・・
「結婚しようって考えてるの?」
二万円をポケットにねじ込んでいた私は、突然聞かれて不意を突かれ「んなわけないやろ」と答えて無理矢理笑顔を作った。
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このやりとり、とても怖いと思いました。
父は60前後でしょうから、昇進といったら企業の取締役への昇進かもしれません。母の趣味が日本舞踊ですから、いわゆる良いところのお家なのでしょう。
サチコは、そんなお家の文化には合わない人なのでしょう。
慎一は、小さな嘘をついています。サチコは、「高卒」ではなく、「中学中退」です。中学は義務教育ですから、表面上は中卒になるのでしょうけれど。
また、結婚の決意を伝えに行ったはずなのに、「結婚しようって考えてるの?」という母からの問いに、「んなわけないやろ」と答えています。
おそらく、幼少期からある時期までの慎一は、平和なしかし、嘘で固められた世界に住んでいたのでしょう。
しかし、天国と地獄を隔てているものは、内臓や筋肉を覆っている皮膚ぐらいの薄さしかないのかもしれません。