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「日蓮」 佐藤賢一 著 新潮文庫

日蓮は、「端から浄土行きを考えるのでなく、この娑婆で仏になることを考える(p.35)」法華経が何より尊いと信じ、どんなに妨害されようとも殺されそうになっても、その教えを広めようとします。伊豆流罪(1261年)になった10年後に佐渡流罪(1271年)になっても自分の姿勢を変えないのですから、硬い信念があり鉄の意志を持つ人だったのでしょう。

法華経の教えには、成仏できないとされてきた悪人や女性も往生できる弱者救済の視点があり、現在から見ても斬新な思想だと言えると思います。

ただ、平頼綱の 「他宗といざこざを起こすな、他宗を責めることなく、他宗を認めよと、ただそれだけ求めておるのだ。いや、その仏法を容れよとはいうておらん。ただ、この世には他宗もあるのだという、そのことだけは我慢なされよ(p.363)」と言う姿勢にも共感する部分はあります。僕のような凡人は、ついつい、この娑婆で仏になることを目指したい人は目指せばいいし、極楽浄土への往生を願いたい人は、願ってもいいのではないかとも思ってしまいます。

日蓮が対立したのは、浄土宗、天台宗、禅宗などです。
浄土宗は阿弥陀仏の名号を唱える「念仏」を中心とし、極楽浄土への往生を願う修行を重視します。しかし、日蓮は法華経こそが最も尊い教えであり、念仏を含む他の仏教の実践は真の仏教の教えではないとし、念仏を厳しく批判しました。
禅宗は瞑想(坐禅)を重視し、悟りを得るための直接的な体験を追求しますが、日蓮は禅宗のアプローチを批判し、法華経を重視しない宗派は間違った教えだと主張しました。
日蓮は天台宗の流れを受けて育ちましたが、天台宗が法華経を十分に重視していないと感じ、独自の道を歩むことを決意しました。

まあ、バッサバッサと切りまくっているという感じです。

自分自身を顧みてみると、僕は、セラピストなのであるわけですが、精神力動も、認知行動も、人間性心理学もみんなありだと思っていますし、統合すればいいと考えているので、その点は、平頼綱の考えに近いんです。

しかし、例えばカウンセラーが白衣を着るのはやめた方がいいと思っているし、聴くだけのセラピーは意味がないと思っているし、「おうむ返し」=「共感」と言う考え方には大反対だし、一方的なスーパービジョンはハラスメント的だと考えているし・・・ということで、そうした考えや手法には、これまで異を唱えてきましたし、その点、自分は日蓮的だ!などと驕り昂ったりしております。

自分を日蓮や平頼綱に重ねて考えるとは、なんとずうずしいのでしょう。

ちょっと引っかかったのは、日蓮が、災害や外敵の侵略を日本が正しい仏教を信仰しないことと関連付けて考えていたことです。東日本大震災の時、「天罰だ」みたいなことを言った元政治家の言葉を思い出したので、ちょっと、それはないんじゃない?と思いました。時代的にも仕方がないことかもしれませんが・・・。

この件について、現代の日蓮宗はどう捉えているのかをネットで調べたところ、「現代の日蓮宗においても、日蓮の教えに基づく基本的な考え方は残っており、法華経の信仰を重視していますが、日蓮自身が生きた時代とは異なり、災害や人災に対する解釈は変化しています。(ChatGPT)」なのだそうで、安心しました。

今の世の中は、国力が弱まっているのに、格差社会で、弱者を切り捨て、自分さえ良ければいいと言う状態になっています。まさに末法なのかもしれません。


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