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「今村均」 岩井秀一郎 著 PHP新書

今村均陸軍大将は、素晴らしい人だったのだと思います。大東亜戦争(太平洋戦争)開戦時に第十六軍司令官として活躍し、最後は要衝ラバウルで第八方面軍司令官として終戦を迎えた陸軍大将です。

インドネシアにおいて、今村の指揮する第十六軍の進撃は順調で、ついにインドネシア軍(オランダ軍が主力でアメリカ軍、イギリス軍などが参加していた)は降伏します。しかし、今村は敗者に対して居丈高になることはなく、常に寛容な姿勢(緩和政策)で接しました。
今村による統治は、

  • 捕虜の頭を殴らない。当時の日本人にはすぐに人の頭を殴る悪い癖があったが、今村はこれを禁止した。インドネシア人においては頭は神のやどる場所と考えられていた。(p.146)

  • 当時オランダの植民地だったインドネシアは、オランダ語での教育がなされていたが、今村は「村落学校」を作り、インドネシア語での教育を実現させた。(p.148)

  • オランダ人民間技術者の積極的利用(p147)

  • 寛大なオランダ人抑留方式の採用(p.147)

  • 行政。制度、施設の現状維持(p.147)

  • 民間運動に対する寛容(p.147)

  • 捕虜や住民に権利の一部を渡す。労働の成果の一部を還元、自由時間や休息も与える(p.151)

などです。

この結果、捕虜や住民は、むしろ効率的に働くようになり、制約はあったかもしれませんが、捕虜の妻子は、自由に散策ができるようになったそうです。

戦後、多くの軍幹部が死刑に処せられたにもかかわらず、今村がそれを免れたのは、インドネシアでの穏健統治が影響したのでしょう。
僕は、今村を立派な人だったと思うし、尊敬もするけど、聖人ではないと思います。彼自身もそういうふうに崇められるのを嫌ったのではないかと思います。

今村は、若い頃失敗をしています。満州事変の拡大に反対しませんでしたし、賛成側の動きをしたこともありました。また、悪評高い戦陣訓の作成に中心的に関わりもしました。戦陣訓の中の「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」は、のちに玉砕の根拠とされてしまいました。今村は、部下が起案したものに筆を入れただけです。また、今村のアイデアで、哲学者の紀平正美、詩人の土井晩翠、作家の島崎藤村などの校閲を受けたものでした(p.122)。

今村は、満州事変の時の自分の行動も、戦陣訓を作ってしまったことも後悔しているのです。そこが、いいなと思います。

戦後、防衛大学生に死生観を聞かれたとき、今村は、「恥ずかしいことですが、実は、私はラバウルの始末が一応ついた時に、自決しようとして、失敗してしまいました。飲んだ薬が古くなっていて効かなかったのです。考えて見れば防空壕で爆撃を受け左右に座っていた人がなくなり、私だけが怪我一つせず助かったこともあります。それ以来、死というものを自分で決めることは出来ない、と考えています(p.184)」と答えています。・・・素晴らしいと思いました。

今村は、戦争中九死に一生を得た経験があるのですが、飛行機のトラブルで墜落しそうになった時、ふと浮かんだのが、小林一茶の
「南無阿弥陀仏 あなた委せの 歳の暮れ」
なのだそうです。

死に直面してもユーモアのあった人なのですね。




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