母について2 葡萄畑と梨畑と穴の開いた靴下
母は呉服屋の三女として生まれました。次女は生まれてすぐに亡くなってしまい、長女は戦時中疎開先の長野で脚気になり亡くなりました。母は10歳前後でいきなり長女の立場になってしまいました。そのことが、その後の母の人生に大きく影響を与えたと思います。自由奔放な三女気質と、長女としての役割の葛藤です。
戦後は女学校に進み、弟や妹たちの世話をよくする真面目な優等生だったようです。この辺りは、長女の役割をちゃんとやっていたということになるかと思います。
本が好きだった母は、その延長で次第に演劇に興味を持つようになります。そして、ついに劇団に顔を出し、研究生になったようです。つまり、女優の卵になりました。この辺りは、自由奔放な三女気質がむくむくと頭をもたげたのかもしれません。
当時の知り合いの中には、のちに有名な俳優さん女優さんになった方もおられたようです。増山江威子さんや成田三樹夫さんは、どの程度なのかは知りませんが「知り合い」だったようで、時々会話の中に名前が出てきました。母がそのまま演劇をやっていたら、どんな女優になったかは分かりません。ただ、その「知り合い」の方々と同じスタートラインには立っていたということです。
そして、その劇団には、15歳年上の父がいました。劇団ではベテランだったのですが、演劇ばかりやっていたので、収入は少なかったようです。日活の大部屋俳優ではありましたが、出演するといっても端役ばかりだったようです。これ↓は、当時の劇団員たちの写真です。真ん中で上半身裸なのが父、一番左で笑っているのが母、母の隣の女性は同級生で、その後俳優座でずっと働くことになる人です。
そんな先の見えない父と、呉服屋のお嬢様であった母は付き合うようになり、そしてついに結婚します。お嬢様、なかなか思い切ったことをやったものです。
祖父母は結婚に反対しましたが、若いふたり(といっても父はそんなに若くなかったですが・・・)は止まりません。川崎の稲田堤という登戸の先の、当時周りは葡萄と梨畑ばかりの一軒家で二人は暮らし始めました。これは、「呉服屋お嬢様駆け落ち事件」として、呉服屋内外で、ちょっとした話題になったのだそうです。だいぶ経ってから、当時呉服屋の近所に住んでいた人から、「あの時は、大騒ぎだったわねぇ」というお話を聞きましたから、それなりの騒ぎにはなっていたのでしょう。
その時、母は女優になることを断念したのだと思います。
稲田堤の家には水道が通っていたかどうかは記憶にないのですが、井戸があり、そこからよく父や母が水を汲んでいました。風呂も薪で炊くというものでした。そこに僕と弟が生まれるわけで、母も大変だったと思います。稲田堤は、日活の撮影所にも近かったので選んだようです。
ある日、突然我が家に何人もの男がやってきました。母は何事かと混乱したと思います。男たちは雑誌の記者たちでした。当時父は石原裕次郎さん主演の「嵐を呼ぶ男」に出演したのですが、その悪役ぶりが話題になったので突撃取材に来たようです。(ご参考:https://note.com/yoshiyukikogo/n/n20d4f927f503?magazine_key=mf50d9033c8ca)
母はその時の思い出として、「善之の靴下に穴が空いていたのが恥ずかしかった」とずっと後になるまで語っていました。
父の悪役ぶりは、確かに元ボクサーだけあって、すごみがありました。ボクサーあがりの悪役俳優というのが、父のポジションになったのです。確かにそうなのですが、そうした売り出し方をされると、父と母にとって大事な劇団員時代は、遠くに追いやられてしまいました。
父は石原裕次郎さんをはじめとする大スターの皆さんの映画に出演するようになり、少々羽振りが良くなったのでしょう、今の新川崎駅の近くに引っ越しました。当時は新川崎駅という駅はなく、操作場でした。最寄りの駅は鹿島田です。稲田堤と比べ、商店街もあり、賑やかだなと思いました。今や稲田堤も住宅街になってしまって、葡萄畑や梨畑はほとんど残っていませんし、鹿島田駅前には高層ビルが立っています。
父と母は、僕が3歳弟が1歳になるまで稲田堤に住んでいました。両親は4年ちょっと住んでいたことになります。
父も母も大変な時だったと思いますが、母は「あの時が一番楽しかった」とよく言っていました。下の写真は、稲田堤の自宅前で撮ったものです。母に抱かれているのが弟、下にいるのが僕であります。当時の風景はなんとなく覚えています。一面の畑が見える縁側で葡萄を食べていた光景が、僕の最初の記憶です。