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「「私」という男の生涯」 石原慎太郎 著 幻冬舎文庫

僕は、石原慎太郎さんとは、考え方も理想とする方向も違います。

でも、自分が死んで妻も亡くなってから絶対に出してくれと、幻冬舎の見城社長に著者が生前に頼んでいた本とのことなので、手に取ってみました。

よくここまで赤裸々に書いたなと思います。

女性遍歴がすごい。

「無謀な結婚の後、妻に支えられながらも繰り返した女たちとの不倫は、間に入った弁護士に、あれは面倒な相手だと同情されたほどの女にまでひっかかり庶子までもうけ、妻だけではなしに、その間長く関わり尽くしてくれた女までを傷つけたり、晩年奇跡のような取り合わせの若い女を持ったり、生まれつきの好色の報いはいろいろな形で私の人生を彩ってもくれた(p.260)」と、書かれているように、妻がありながら、ずっと外に女性がいて、子供まで作ってしまったというのだから、女性にだらしがないと言われても仕方がないですね。知事時代には45歳も年下の女性と付き合っていたそうです。

子供の頃は、ヤンチャな弟に比べ真面目でできの良い兄だったようですから、大人になってから、ヤンチャの歯止めが効かなくなっちゃったんですかね?

興味深かったのが、どうやら新興宗教やスピリチュアルに興味を持っていたらしいという点です。本の中にもユング、ウィリアム・ジェームス、ベルクソンなどの名前が出てきたり、神秘体験や超常現象に関する記述があったり、新興宗教の団体の名前が出てきます。ヨットレースの直前に、「日頃恩義のある宗教団体の大会に出席していた(p.148)」などという記述や、新興宗教のルポルタージュを書いた際には、「新しい宗教を興した開祖たちの備えた、殆どの人間たちにとって不可知な存在についてしみじみ認識させられた(p.191)」という感想を残しています。

実は、少なくとも青年時代までは、多感で繊細なところがあったのではないかなと思います。慎太郎さんは、高校2年の途中から1年学校を休学しています。つまり、不登校です。

その時のことを、

「私は結果としてこの中学に延べ七年通うことになった。それは途中からこの学校の硬直した俗物性に耐えられなくなり、発育盛りの思春期の生徒たちを教える学校の教師たちのなんとも言えぬ俗物性につくづく嫌気がさしたせいだった。そのために親に病気という噓をついて旧制中学から移行した高校の二年の途中から一年休学、と言うよりも実質登校拒否をして、学校を休むと言うより私のほうからボイコットしたと言える。(p.40)」

と書いていますが、真相はどうだったのか?中学に入学した時、級長にも副級長にもなれなかったことにショックを受けていた(P.40)真面目少年だったのですから、終戦前後の大人たちの豹変に混乱し、絶望的な気持ちになったのではないかと想像します。

「今でも記憶にあるが、敗戦後の全校生徒を対象にした教育として、体育館に生徒全員を集めての再教育で何度となく繰り返し、民主主義と自由主義なるものはあくまで異なるのだということを執拗に説いて聞かされたものだった。その度、私には聞かされている我々よりも話している教師のほうがそのことを理解していないのだろうと思われてしかたなかった。あれは、あの学校の創設者だった校長が呆気なく追放されてしまったような状況の中での彼らの保身のための自己弁護だったに違いない。(p.41)」といったことも書かれています。

青年慎太郎くんには、大人の変節が許せなかったのかもしれませんね。鬼畜米英と言っていた人たちがいきなりリベラル発言ですから。彼が、その後保守に傾倒していったのもわからないではありません。でも、戦後急にリベラルや左になった人たちも、最近急に右旋回して反中嫌韓なんて言っている人たちも、根っこのところは変わらないと、僕は思うのですが・・・。

彼のやったことでいいこともあります。無名の芸術家たちを、精力的にサポートしました。

「その一つはトーキョーワンダーウォールとワンダーシードと称する若い無名の芸術家たちの発掘の場だ。(p.233)」

「殆どの人が見向きもしない大道芸人を育てるため、その道の達人たちに審査をしてもらい、合格した連中には都からライセンスを与え、あちこちの町に設けられている歩行者天国などで晴れて得意の芸が披瀝できる制度をつくり出した。(p.235)」

これらは、著者の芸術への温かい視点が背景にあるのでしょう。

また、羽田空港の国際化や東京マラソンの開催など、都知事時代は、一番石原さんらしい仕事をしたのではないかと思います。


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