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呪文の効果について

ピエトロ・ダーバノ『調停者』156訳
Pietro D'Abano, Conciliator differentia 156 

妖術(呪文)は治癒するか
§ 1. 妖術(呪文)は治癒しないことは証明されている。オヴィディウスは『愛の妙薬』で「妖術(呪文)が汝のこころの心配事を遠ざけることはない」と書き、ガレノスが『薬草論』VIで草に召喚詞を唱える妖術(呪文)について論じる医師たちのあげ足を取っている通り。
§ 2. さらに〔アリストテレスは〕『解釈論』において、(I) 一つの言葉(語)は肯定もしくは否定によって真であったり偽であったりするのではない、と言っている。呪文は肯定的もしくは否定的な言明である。実際、真と偽にかかわることがらは、行為についても言える。〔アリストテレスの〕『形而上学』によれば、(II)〔呪文は〕自然本性(自然界)の真と偽に関して何の効果ももたらさない。さらに、その種(スぺキエス)を超えて何のはたらきをもしない。呪文は論述(議論)の一種(スぺキエス)であり、〔アリストテレスの〕範疇論の類のうちに編入される。一方、健康(救済)はおそらく関係の類である。これは種において異なるばかりか、類においても異なっている。さらに呪文は意図的に自ら動く(動かす)ものであるが、健康(救済)はどこかリアルなことである。
§ 3. また〔アヴィセンナの『医学典範』〕第一部第四項では、嘘のリアルさは三つのことがら、つまり節食(養生法)、一服の薬、手作業によって現実のものとなる。つまりガレノスはパテルニアヌスに、「薬は身体のすべてを以下の三つのことがらに還元する、つまり薬、鉄、火」と言っている。しかし呪文はこれらのいずれでもない。それはこれらの文書で証示されているとおり。
§ 4. また通常、治癒するものはこれが健常(救済)をもたらす(挨拶する)ことにより劣化(変化)させる。しかし呪文が劣化(変化)させることはない。というのもこのような劣化(変化)は物質(質料)の中に伝えられ〔これが劣化(変化)され〕ねばならないから。しかしこれが呪文のうちにも健常(救済、挨拶)のうちにもないことは、すでに見たとおりである。つまり呪文が治癒をもたらすことはない。
(異論)
§ 5. 逆に、ホメロスは『頌歌』で(I)クリセの祭司は海岸に戻り、アガメムノンに捕えられた娘ブリセイスのために請願した(託宣した)がこれがかなえられず、太陽に呪文をもって祈願した、と謂われている。そこではどのように生贄を捧げたか、ギリシャ人たちは復讐のために別の機会にそれをどのようになしたかを語りかけると、太陽は挑発されて、その弓あるいはその光線の矢を放ち、最初は驢馬や白犬に、つづいて人々に悪疫をもたらし、手ストールの息子カルカンテがこの悪疫のせいで特定される(?)とアガメムノンはブリセイスを祭司に戻すよう強要されることになった。〔アヴィセンナの『医学典範』〕III, 1「愛について」によれば、「この書ではこののことが効果をもたらす」と記されている。
§ 6. さらに〔アリストテレスは〕『動物運動原因論』で、「熱と冷、快あるいは悲哀の知性的な種は、これらのことがらの各々と類比的である。これゆえに〔動物たちは〕これらを思惟するだけで震えたり恐れたりする」と言う。本書の相違135で論じたように、これらが実在する訳でなく、ただ想像されるだけで。と言う。呪文においてもこれ同様にあらわれる。
§ 7. また、病人のうちに健康への信頼が生じると、治癒に役立つ。これまた上述の相違で論じられたところである。呪文もまたその理拠を指摘することができるだろう。つまりこれは治癒に役立つ。

(序として)
§ 8. まず、真っ先に以下を知らねばならない。ソクラテスは呪文が人の魂を欺く言葉であると言った、と記されている。
§ 9. 上述した通り、呪文は驚嘆すべき言葉のひとつであり、蠱惑された(呪文を投げつけられた)者を助ける共感(感情移入)とともに、特にそこに信頼がある時に用いられたものである。これは論述(議論)と呼ばれ、意味のない語と区別される。これが驚くべき隠されたことがらに対して(ついて)発語されると、それ〔の潜在力〕は蠱惑され、彼(?対象?主体)に対してより効果的なものとなる。それゆえ可能な限りそれは秘匿(隠蔽)されねばならない。実際、「秘密の玄義を公にする者はこれらの神的な性格を減じることになる」。ノトリアの(悪名高き)業は〔妖術師によってまた〕妖術(蠱惑)そのものの厳粛で最大の応用によって蠱惑(魔術)を生み、より大きな効果を生じることになる。蠱惑(呪文)それ自体が信頼されればされるほどこれを助けることとなる。相違135で「信頼する者ほど病が癒される」と論じた通り。
§ 10. その効果は以下の解説からも説明される。というのもボエチウスの『解釈論』Iによれば言葉には三種があるから。ひとつは人の霊のうちに形成される観念(概念)。もうひとつは発声からなる。〔アリストテレスの〕『範疇論』の一節によれば、「声高に発声されるものを言葉と呼ぶ」。しかしこれは文字や記号によって書き記され、首その他に貼りつけられることとなる。
§ 11. さらに蠱惑者(妖術師)は狡猾で、信頼と共感に溢れ、勇敢で堂々としていなければならない。また蠱惑される者は欲望と希望に満ち、行為が予定通り進むようにすべてを委ねるのでなければならない。相違135で論じられたように。呪文(蠱惑)はいずれ意図的なものであり、これが効果的にはたらくのはこれらの諸条件が整ったときだけである。というのも「緒能作のはたらきはこれを受動する準備ができたものの中で展開されるから」。つまり〔妖術(呪文)〕は魂の力能(徳)のようにより可変的なものを変じ、劣化させる。特に睡眠中、身体の他の部分の運動が已む時に。この〔妖術(呪文)〕は主として逆性に適用される。これが生命力〔を改変し、劣化させ〕、ついにはもっとも質料(物体)的なものとしての自然本性的な諸力を改変する。
§ 12. 推測能力は獣たちにおいてよりも人においてより変化する。実際、われわれは他のものが欠伸をすると欠伸を誘発され、誰かが尿をするとわれわれは尿意を催す。こうした情動は他の生きものよりも人においてより大きく、行為によって行為が再現されるように記憶がかたちづくられる。愚かな獣には視覚だけでは十分でなく、他にたとえば嗅覚が必要である。実際この感覚はたいへん変じやすく、これゆえにいずれかが放尿した後、それぞれが順番にこれを嗅ぐ。このように容易に変じるものは共感のはたらきによって変じられる。欠伸もしくは伸び、さらに尿、精液によって発される煙(水蒸気)が、糞とともに『問題集』VIIで語られているとおり。
§ 13. 有効な治癒とは何であるか、これについては〔この論議〕で問われることになる。

(第二)
§ 14. 第二に、妖術(蠱惑)には効果がないと言った者があることを知っておかねばならない。まず、粗雑で信仰のない者は、媒介として可感的な、物体的でより粗雑なものとの接触なしには運動(はたらき)は起こらないと考えるのだろうか。実際、アリストテレスによれば、一々の行為(はたらき)はこのように生まれると言われている。これは相違60で論じたところ。これは〔この人物が〕物体的身体の中に最大限に浸っていることを説明づけてくれる。これが裸のリアリティーを彼が一切感得できず、さらに未来を予知できない理由である。これをアヴィセンナは『形而上学』IXで、「われわれの世界およびわれわれの身体の中でわれわれは数々の悪徳に浸りきっているので、これらの原因の幾つかが産生される時にはわれわれは理性魂の歓びを感じることがない」と言っている。ハリーもまた『百言集註解』で同様に語っている。
§ 15. しかしオヴィディウスのような人は、蠱惑(妖術)が人々から激しい愛を遠ざけることができるなどということはあり得ない、と言っている。これが彼の書〔『愛の妙薬』〕の意図であり、そこでは数々の具体例が示されている。失恋した男が〔妖術によって〕短時日のうちに愛から引き剥がされることなどできないように。
§ 16. 一方、他の者たちは〔妖術を〕蔑し、ほぼすべての減少に算術的な原因を探る〔著作家たちの〕哲学を見出すことになった。しかし尾の中の或る者はそうした理拠づけが彼らの可感的な業に包摂されないからといってこれを嫌い、未解明の現実(リアルさ)のうちに第一諸性質を凌駕するもののはたらきがあらわれると考えた。特に理性魂や可感魂をもたないものどもに呪文(妖術)が発語される時には。たとえばガレノスは上掲書VI巻でカマキアルスとバマキルスを嫌って、誰よりもディオスコリデスに拠りつつ、善良な女たちや老婆たちは愚かなエジプト人たちの流儀で魅惑的で迷信的な言葉や物語を語る習慣があった、と言っている。実際、彼女たちは薬(癒し)を召喚し、土から草を引き抜く時、またこれらを護符のように慰めのために首その他に貼る時に信心深く潅水や燻蒸を行った。これらはすべて偽であり無意味であり、医学の業からすると格別忌むべきことである。こうしたことに執着する者たちはこの業の諸原理を放棄した者たちである。
§ 17. また他の者たちはこうした意図もなく反論することを恐れ、上述した二つの類の妖術(呪文)を認めた。

(第三)
§ 18. 第三に、なにより妖術(呪文)がそれ自体では効力がなく、ただそれを発声する者から、あるいは彼に代わってこれを召喚する者から、あるいはそれを原因するものからそこに到来する力を受け取ることができる時にだけ効力をもつということを知る必要がある。
§ 19. 〔問題解決の〕第一部に関しては、妖術(呪文)はそれ自体効果があるかどうかを知ることが大切である。これはその時発声される単なる一語あるいは何らかの言葉に相当し、これは明らかに偽である。さらに問題の蠱惑(呪文)は音声の発出からなっている。しかしこれはそれ自体身体に健常を与えるものではない。というのも〔健康は〕この変化に導入されねばならないにしても、これが変じられることはないから。〔アリストテレスは〕『デ・アニマ』II, IIIで「雷が木を裂くような」、「音が生まれる時の衝迫のような遇性によるのでない限り」、「光も闇も音も臭いも身体には何の影響(効果)をももたないことは明らかである」と言っている。つまり視覚や嗅覚に感得されることがらが産生する運動の中には、偶然、触覚や呼吸を妨げるものもある。これは第一の諸性質に由来するものであって、第三のものにではない。これが蠱惑(呪文)それ自体が治癒をもたらすことはないという理由である。
§ 20. 〔問題解決の〕第二部について、これは体験によって証示され得ること、それゆえ蠱惑(呪文)は有効であるという理由が得心される、ということを註しておかねばならない。実際、これに関する実例は枚挙に暇がない。たとえばエウカレスティア(聖体)の至高なる秘跡その他のように。またノトリアの業(1)やエウテンティカの業(2)で用いられる神名の数々のように。また妖術師が聖シルヴェストルの傍らで牡牛に致命的な一撃を与える時、その耳にささやくことば(3)のように。するとこの聖人が牡牛を生き返らせるという。これはまたパンの、竪琴の、盗難を暴く篩を移動させるときにも確認される。誰かの耳にささやかれる或る言葉は、求めることのすべてを与えるのを早めることになる。同様に、発声されたあるいは記された蠱惑(呪文)は苦しむ者を決してふらつかせず、これのおかげで鋭く研がれた剣の上や燃える炭の上を歩むこともできる。これをいずれかの指に貼ることにより、人やたいへん重いものを気中にもち上げることも可能となり、蛇が噛むのを妨げるように妖術に欠けることもできる。また蠱惑(呪文)によって興奮した馬を鎮め、他の獣たちのように去勢することもできる。(犬を柔和にし(4)、吠えるのをやめさせ、)身動きを止めることもできる。これによって噛み裂かれるばかりの者たちを危険から救うこともできる。
§ 21. 同様に〔上位の諸力は〕諸星辰への祈りによって鎮められ、われわれを助けに駆けつける。諸惑星に向けられる祈りの末尾に示唆されているように。ここからサダンの書中でアルブマセルは「ギリシャの王たちは或る特定の問いを或る神に嘆願しようと望む時、中天に(6)龍の頭(5)上昇位の主(惑星)と木星が合するように。これ(最後のもの)はさらに龍の頭と親しい配置になるように。つづいて、問いは聞き届けられた、といわれている。アルマンソルのフォリズム中には「誰かがなにごとかを神に問う時には、龍の頭を中天に据え等々、要望がかなえられるにはさほど時を要さぬであろう」とある。わたしもまた知識を求めて天球にこの配置を探ることで、この知識にたちまち精通することができたように思われた。

§ 22. また妖術(呪文)の効果のもと、誰か眠ることのできない者に妖術師(呪文を唱える者)の想像力を与えつづける(図像を描きつづける)と、これ(呪文)が眠りを穢し、或る人物が将来どうなるかを示してみせることになる。こうしてどのようにしても取り除けないように骨に引っ掛かった矢も、二本の指を用いることで容易に痛みなしに取り出される。蟹は破壊され、蛆は殺され(歯の痛みは癒される)。至る所から流れ込む血はこの妖術(呪文)および文字記号(カラクテール)によって止められる。癲癇の危険も耳に囁かれるか身に着けたマグスたちの名によって鎮められ、これによってすべてを止めることができる。これによって癲癇、狂気(悪魔憑き)も癒されることについては、コンスタンティヌスも「父と母は彼を水曜日の四時(?)、金曜日、そして土曜日には謳い、この詩編の伝説を日曜に読むため教会に連れて行く、この種の悪鬼たちは祈りと断食によってのみ追い払われる」と言っている。すると派の痛みはたちまち消える。文字記号(カラクテール)と蠱惑(ファッシノ)によっても同様に腎臓病が癒される。土占い(ゲオマンツィア)その他が教えるように、未来が予見できるばかりでなく遠隔地も望見される。
§ 23. しかしすべての場合(事例)は理拠によって規定されるものであり、感得される効果はその原因に還元される(遡る)。というのも将来することは直接そのうちあるいは下位にある原因によるか、外的な原因によって起こるのだから。
§ 24. 前者(の原因)の場合、できごとは二つの様相で起こり得る。共感とともに妖術(呪文)を発語するもののおかげで。その魂がこの世界の質料(事物)を支配し得るほど高められ、これを彼の意志に従う知性の力によって変じる場合。あるいは妖術(呪文)を受ける者が深い信頼をもつ場合。だれか判断(推論)能力に支えられていると大きく感じている場合。これは逍遥学派が認める様相。相違135を参照。これら二つ〔の可能性〕のどちらも十分に説明されており、本書の相違においても主としてこの点に依拠している。
§ 25. しかしこれが外的な原因の帰結であるなら、これも二つの様相で起こり得る。その本質(スブスタンチア)がより普遍的な場合、あるいはより個別(具体的)な場合。より普遍的な原因あるいは第一原因とはこれの力能において結果として祈りもしくは蠱惑(呪文)が生じる場合。これは相違101で証示したように、われわれの或る種の配慮による場合。あるいはそれが超自然的な能作である場合。第一〔つまり神〕は下位なるものどもにその純粋な善、純粋な意志によって、運動も変化もなしにはたらくことができる――上述の相違で逍遥学派が言うように――というのもそれは至高なる善であり、その特性は「自らを拡げ伝える」ものであるから。さもなければそれは至高ではないことになる。それゆえ〔第一とは〕どこかたいへん神的でありたいへん尊いものであり、〔アリストテレスの〕『形而上学』XIIによれば、その本質(エッセンチア)はこれに劣るとみなされるなにものかの中で変じることはない。実際、それは自らに関係のないことを思惟せず、自ら自身を思惟することですべてのものごとを思惟するから。これらのものごとのすべては彼のうちでこれらの原因とみなされるから。それはこれらのものごとを質料的で卑しいものとして観照せず、より高貴でより高い様相で観照し、これをこれらのものごとの原因とみなす。この様相により、諸感覚の観点からもっとも卑しい動物や忌わしいものごとの知解も高貴で尊いものとなる。これについて、〔アリストテレスの〕『動物区分論』Iには、「理論的知解に関しては、諸感覚にとって快いものではないもの共にかかわるような様相でわれわれは操作する」と言われている。というのも、〔自然本性は〕諸原因を知ることができる者に驚嘆すべき歓びを提供するから。メシュエによれば、「神だけが病を癒す」。
§ 26. しかし本質(スブスタンチア)が絶対的にあるいは或る理由による一性(統一)をもつ個別(具体的)な場合。前者の場合には、それは善なる本質(スブスタンチア)である、つまり神性によって設けられた天使のように。われわれの主宰者あるいは第一なる者の前に祈りをもたらす使者として。これはアヴィセンナがその『形而上学』のX書で考えたところ。これについては聖書の中に数多の句節が認められる。
§ 27. 逆に悪鬼(ダイモーン)や霊のように〔本質〕が腐敗している場合、その効果(帰結)はたいへん大きい。というのも「これに較べられるような地上の権能(潜在力)はない」から、これは妖術(呪文)や生贄に服従することで、それが興奮し姿をあらわすことで多くのことがらを完遂し、欺くから。特にもっとも素朴で弱い女たちに従うことで。というのも、その知解によって彼女たちを早々に欺くことができるから。これについては、彼女らの妖術(呪文)や悪魔祓いによって望みの効果(帰結)が得られるたびに、たとえその業がより完全におこなわれるにしてもそれが学識ある男たちには起こらないことから明らかである。これはわたしが実見した通り、神崇拝を行う場所において最大の力をもち、より親しいものとなる。もちろん逍遥学派の哲学はこれ(ダイモーン)を語らない。実際、彼らの哲学はプラトンの哲学とはずいぶん異なっている。〔アリストテレスの〕『形而上学』XIIの諸感覚をもち運動する存在(もの)の部分と駆動者についてに見られるように。またプトレマイオスは『四書(テトラビブロス)』IVで〔ダイモーンについて〕「月が真に人馬宮あるいは双魚宮の中の主に愛されるなら、〔生まれる者は〕死者たちを介して予言をなし、邪悪な霊たちを或る場所から他の場所に移るよう強要することになるだろう」と言っている。これに対して註解者は、「彼は悪魔であれ他の諸霊であれ、霊たちを強いて、これらによって予言をなすだろう」と言っている。
§ 28. この本質(スブスタンチア)が運動するものの不壊の存在の一性(統一)つまり知性あるいは天の魂である場合、アレクサンデルやテミスティオスによれば、これも二様である。
§ 29. 〔蠱惑(呪文)〕が有効である場合。つまり動かされるものが蠱惑(呪文)によって変じられる場合。それはわれわれの配慮によって方向づけられるような、いわば知性的〔本質〕で、行為(運動)を実効的となし、あるいは蠱惑(呪文)のさまざまな様相に準じてその天球とその星辰を介して対峙する。これは木星、土星、その他の惑星を召喚する多くの魔術師(マグス)たちが、これらを支配する知性の名をもって厳修するところで、相違9で好意的な配置について論じたところであり、たしかにこれは祭司クリゼが考えたことである。わたしが実見したように、こうした人は不断の蠱惑(ファッシノ)によって激しい愛憎へと導かれる。
§ 30. 蠱惑(呪文)が効果なしに助けとなるようにみえる場合。これ〔が起こるの〕は誰かの誕生時の意味するもの(シニフィカトーレ)の方位(10)がある区界に到達することで、後者(?)がなんらか類比的な理由から愛を受け取るか、偶然による以外何の効果もない蠱惑(呪文)をなす場合。これについて〔アリストテレスの〕『分析論後書』Iは、「歩みを進めるうちに雷光が煌めいた」という例を挙げている。このようにすべての哲学者たちは蠱惑(呪文)その他これに類する業を拒否している。しかしこれは真ではない。実際、それはたまに起こると言われるにしても、必ず起こる訳ではなく、時々ですらない。意味するもの(シニフィカトーレ)の方位がこの類のことがらを引き起こす場所に到達するのはたいへん稀であるから。これについては相違64で論じた。ところがわれわれは或る蠱惑(呪文)あるいはこれに類することにより望みの効果を得る能作をかなりしばしば目の当たりにする。
§ 31. しかしアヴィセンナが能動知性と呼んだような腐敗性の動機(壊敗性の運動)に付着する本質(スブスタンチア)をそれ自体がその問いの本質〔ここで語るような〕と解するならば、これは相違101および135で説明したところである。
§ 32. あるいは〔これが起こり得ることであるなら〕、そこで自然本性の排除の運動が〔本質(スブスタンチア)に〕起こる。ある高貴な男が哀れな老婆に次のような蠱惑(呪文)「二足す三は五、三足す二もまた」を教えた時のように。或る日、魚の小骨がこの男の喉に刺さり、彼に痛みをもたらした。結果として彼女を呼ぶと、彼女は彼のもとへ赴き、彼が教えてくれた治癒法(癒し)より他になにも知らないと彼に言った。そこで彼が大笑いをすると、血まみれの骨が吐き出された。

(第四)
§ 33. 第四に、最初〔の反論〕には次のように答えることができるように思われる。オヴィディウスは詩人として、〔このような実修を〕否んだに違いない。というのもこれは彼の言明に逆するものであるから。〔アリストテレスの〕『形而上学』序によれば、「諺によれば、詩人は多くの嘘をつく」。医師たちの中の予言者と称されるガレノスも同様に、これを彼の業と混ぜることを望まなかった。
§ 34. また別の反論についてはすでに観たところであり、蠱惑(呪文)そのものは治癒になんの貢献もしないと答えることができる。一方、〔効果を生む〕この類のものは、某〔人物〕によって実修される。
§ 35. これ以外の反論に関しては、相違135で言わねばならぬことは言っておいた。実際、このようなもののひとつはその種(スぺキエス)を超えてははたらかない。火の熱が〔火の力によって〕水から火を生じるように、何か他の権能(潜在力)によって権能(潜在力)であることはできる。それ(火)は熱としてあるものではない。これ(熱)は遇性であり、「病において他の能作(はたらき)よりも優越するものである〔とはアリストテレスが〕『デ・アニマ』IIIで言うところ。
§ 36. また別の反論についても先に見たように、妖術(呪文)はそれ自体劣化をも変化をももたらさない〔、と答えることができる〕。これは思惟(こころ)の中に観念を描くだけであり、治癒するものではない。
§ 37. その他これに類する反論についても答えておかねばならない。妖術(呪文)はそれ自体が或る原因にはたらきかけるだけではなく、原因が動因としてはたらかないように取り去るようにもはたらく。実際、愛に反する言葉は理性的存在にとって格別効果があり、〔人々の〕道理(理拠)を刺激し、恥ずべきことから遠ざけるように彼らの観念した愛から完全に遠ざける。
§ 38. 以上のようにこの実際問題には答えられる。

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