見出し画像

『星学鑑(スぺクルム・アストロノミアエ)』 2

<iframe class="note-embed" src="https://note.com/embed/notes/n36c4c77fa01f" style="border: 0; display: block; max-width: 99%; width: 494px; padding: 0px; margin: 10px 0px; position: static; visibility: visible;" height="400"></iframe><script async src="https://note.com/scripts/embed.js" charset="utf-8"></script>

第八章
誕生時日にかかわる部分は、子供の成長を意味するもののうち誕生時日にかかわるものを教える。これは両光球からのヒュレグ[1]および幸運の部分[2]の位置の選択、また昇機(アシェンダント)からの度数および誕生に先立つ(太陽と月の)合あるいは衝(逆位)の度数のこと。あるいはアルココデン(の場所)。これはヒュレグの四つの尊厳(公準)-つまり宿、昂揚、終端、三角相-の主(ドミヌス)たちからの隔たり、つまり(ヒュレグ)を眺めるもの、およびより適当な相(アスペクト)をもつもの。これは生命の長さ(寿命)をヒュレグの度数の拡がり(幅)が切断する場所から判定(占断)する、あるいはアルココデンの年の賜によって、またこれに対する諸惑星の相からの増減によって測るもの。これは人が必然によって生きる長さ(寿命)を確言するものではないが、自然本性によってはそれ以上に生命を拡張できない限界(の時)を示すとともに、この度数を昇機(アシェンダント)からの度数に割り当てる。この時の月の度数から身体の病患と健康が予測される一方、中天(メディイ・チェーリ)の度数と太陽の度数からは人(彼)の統率(支配)力が、幸運の部分(箭)の度数からは彼が獲得するであろう富が、また太陽と第四位の主から父親のことが、母親に関しては月と中天の主から予測(占断)される。また、ヒュレグの部分(箭)の延長のためには、ヒュレグの位置を逆方向へ延長する以外には、これを延期(停止)する。加えて、区分(分割)つまりアルゲブタム[3]から、あるいは光線の主[4]から、それらの配置(下準備)の受容器の数々から諸方位を知る方法が。
これはまた誕生年の出発星座(シグノ・プロフェクツィオーニス)[5]から大事の数々が、周転の昇機(アシェンダント)から小事の数々が見定められることをも教えている。そして最後に、アルムタス[6]と昇機(アシェンダント)を混じることによって、誕生時の諸尊厳(公理)の判定(占断)がなされ、またその諸偶性(さまざまなできごと)が判定(占断)される。このアルムタスが円輪のどこにあるかにより、神の命(指示)によるよい成果あるいは破壊を指し示す14の道が与えられる。
これらの主題についてはプトレマイオスの『四書(クァドリパルティトゥス)』と表題された書の第三部に語られている。その完全な叙述はアオマール・ティベリアディス[7]の「Scito quod definitiones nativitatum etc.(誕生時日の諸規定について知るため云々)」とはじまる書、またアルボハリ[8]の「Iste est liber in quo edxposui etc.(この書はわたしがすでに解説したところの云々)」とはじまる書、イオアンニス・ヒスパレンシスの「Primum est considerandum etc.(第一に考察されるべきは云々)」とはじまる『業の第二部(セクンダ・パルス・アルティス)』と表題された書に記されている。

[1] Hylech
[2] Parte fortunae 幸運の
[3] algebutam
[4] Domino radiorum
[5] Signo profectionis
[6] almutam
[7] Aomar Tiberiadis
[8] Albohali

第九章
占断(審問、インテロガツィオーヌム)にかかわる部分では、根本的な意図つまりあることが起こるか起こらないかについてなされる審問にかかわる判断の仕方(占断)が教授される。答えが肯定的な場合には、その原因は何であり、それがいつ起こるかについて。否定的な場合にはなにがそれが起こることを阻んでいるのか、それが起こらないことによって何が起こるかについて。つまり意味するものつまり審問の主と問われたことがらの主あるいは善惑星、受容器、あるいは受け取った者の連携、また合(コニウンクツィオーネ)もしくは相(アスペクト)、移動と配置の複合、あるいはこれらすべてを合わせたものの連繋(意味)による占断(判断)。(獣帯の)円輪の時間は質問者の意図に符合しているゆえに。しかし審問(質問)の意味するものが幸運と凶運に平等であるなら、審問(質問)の前に起こる合もしくは逆位の時の昇位(アセンダント)を、あるいは特に審問(質問)の昇位(アセンダント)にいずれかの尊厳(公準)がある場合には、この合あるいは逆位の度数のアルムタス-つまり誕生時日のアニモダル[1]-を援けとする。しかし意味するもの同(アエクァーレス)である場合には、主がわれわれから答えを封印しようと望まれているので、審問(質問)を別の機会に後送りするか、質問そのものを放棄する。
これらについて論じた書としては、メッセハッラー[2]の書『受容について(デ・レチェプツィオーネス)』[3]、これの書き出しは「Invenit quidam etc.(あるものが発見したところによれば云々)」、あるいはザヘル・イスラエリタエの『審問の書(デ・インテルロガツィオーニブス)』、また『アラビアの審問の書(イウディチア・アラブム)』[4]とも呼ばれる書、これに書きだしは「Cum interrogatus fueris etc.(汝が質問したとき云々)」、あるいはゲルギスの書『一々の宿の中の諸惑星の意味するものについて(デ・シニフィカツィオーネ・プラネタールム・イン・ドミブス)』[5]、これの書き出しは「Sol cum fuerit in ascendente etc.(太陽が昇機(アシェンダント)にあるとき云々)」、あるいはメッセハッラーの『隠されたものの発見(デ・インヴェンツィオーネ・オックルトールム)』[6]、これは「Scito quod aspiciens etc.(眺め(相)を知るため云々)」とはじまる。またこの著者の別の書『思惟の解釈について(デ・インテルプレタツィオーネ・コギタツィオーニス)』[7]、これは「Praecipit Messehalla etc.(メッセハッラーの教えによれば云々)」とはじまる。あるいはザヘルのまた別の書『時の意味するものについて(デ・シニフィカトーレ・テンポリス)』[8]、これは「Et scito quod tempora excitant motus(時は運動を産生するということを知りたまえ云々)」とはじまる。他にも、『九つの占断(質問)の書(リーベル・ノーヴェム・イウディクム)』や、『三つの占断(質問)の書(リーベル・トリウム・イウディクム)』、あるいはアリストテレスの書から採られた論考、先述したプトレマイオスのアリストクセノス宛ての書、イオアンニス・ヒスパレンシスの書で「Est sciendum etc.(以下のことを知らねばならない云々)」にはじまる『業の第三の部分(テルツィア・パルス・アルティス)』がある。

[1] animodar
[2] Messehalla
[3] De receptionibus
[4] Zahel Israelitate, De interrogationibus, ovvero Iudicia Arabum
[5] Gergis, De significatione planetarum in domibus
[6] Messehalla, De inventione occultorum
[7] De interpretatione cogitationis
[8] Zahel, De significatore temporis

第十章
つづいて選択(エレクツィオーヌム)の部では、誰か誕生時日が分かっている者がなんらかの企図をはじめるにあたり好意的な時間の選び方を教える。それには事物の主と誕生時日の意味するものを用いる。しかし誕生時日が分からない場合には、ある質問(審問)がなされる時を正確に採らねばならない。誰かが質問(審問)をなす時の基には、すでに誕生時日の意味していたものが善運(吉)か悪運(凶)か、質問(審問)時には決しているから。また誕生時日は自然本性的なものであり、質問(審問)もまた自然本性的なものであるから、彼(質問者)の誕生の場所を基に質問(審問)そのものが受け取られる。
こうしたことがらはザヘルの「Omnes concordati sunt etc.(あらゆるものに符合があり云々)」にはじまる『選択の書(リーベル・エレクティオーヌム)』[1]、またハリーの「Rogasti me catissime etc.(親しい者よ、汝はわたしに問うた云々)」にはじまる『選択の書(リーベル・エレクティオーヌム)』[2]に語られている。
それはさて、以上述べてきた(星学の)ことがらのすべてを論じた書として、プトレマイオスの「Mundanorum etc.(地上のことがらは云々)」にはじまる『百言集(リーベル・チェントゥム・ヴェルボールム)』[3]、ザヘルの「Scito quod significatrix Luna etc.(月の意味するものについて知り云々」にはじまる『五十の規定の書(リーベル・クィンクァギンタ・プラエケプトールム)』[4]、また「Signorum dispositio est ut dicam etc.(諸星座の配置は以下に述べるように云々)」にはじまる『マンソール宛ての諸章からなる書(リーベル・カピトゥロールム・アド・マンソーレム)』[5]がある。

[1] Zahel, Liber electionum
[2] Haly, Liber electionum
[3] Ptolemaei, Liber centum verborum
[4] Zahel, Liber quinquaginta praeceptorum
[5] Liber capitulorum ad Mansorem

第十一章
選択の部には図像の知識が添えられるが、これらは星学にかかわるものばかりではなく、これらの図像は三部類からなっている。その一つは忌まわしいもので、これには燻蒸と召喚が必要とされる。たとえばギリシャのトツ、バビロニアのゲルマスの図像、ヴェヌス崇拝の像、バレヌスやヘルメスの図像があり、これらは天使たちの54の名を用いて祓われる。これらの天使たちは軌道上の月の像につき従う(下属する)者たちで、おそらくダイモーンたちの名に替えられたもの。そしてそれら(図像)の上には七つの名が刻まれる。善いことを引き寄せるためには正しい順序で、追い払いたいこと(もの)に対しては逆順に。それらはまたよい目的のためにはアロエ、サフラン、バルサムで燻蒸され、悪しき目的のためにはガルバヌム、白檀(サンダルウッド)、松脂(レジン)で燻蒸される。もちろん霊はこれら(名と燻蒸)によって強要されることはないが、われわれの罪のせいで神が許されるなら、彼ら(諸霊)は人々を欺くために強要されたかのようにふるまうこともできる。これは最悪の偶像崇拝であり、それ自体の信頼度(信憑性)をすこしでも増すため、これらの日、時間、宿の名をもって月の28宿を観察し、昼と夜の時間を観察する。これらの手法がわれわれから隔絶したものであるにせよ、創造者による被造物にとっての誉れはそれにも優って乖離している。
また別の部類として不適切さにおいて劣るとはいえ譴責されるべき図像がある。これはある名をもって祓いをなすカラクテル(記号)を記すことによってつくられるもので、ソロモンの四つの指輪、九本の燭台、世界の四区分の君公と呼ばれる霊の三つの形象、そしてソロモンのアルマンダル[1]、悪鬼(ダイモーン)たちが憑く印章(シジッリ)の数々がある。これらに加え、ムハメト[2]の書の七つの名、また同書の十五の名。そして『教えの書(リーベル・インスティトゥツィオーニス)』[3]に載る名の数々。これはラジエルによるものと言われ、大地(陸)、海、気、火、風、そして世界の枢要点(カルデイネス)にかかわるもの、および諸惑星のしるしと昼と夜の三重(三分?)のさまざまな名からとられる天使たち。この手法もまたわれわれからは隔絶しており、かえって未知の言語の名の数々の下になにか秘匿され、それがひょっとすると正統信仰の誉れに逆するものではないかとの疑念を起こさせるものである。
これら二類は降霊術(ネグロマンツィア)の図像であり、先述したとおり星学(天文学)の高貴な名辞を濫用したものと想定される。かなり昔、わたしはこれらの書物を手にしたことがあるが、わたしは怖れに震え、その数、表題、書き出しあるいは内容や著者についてはっきりと記憶していない。じつにこれらを手にとっているうち、わたしの霊が静まることはなかった。いずれわたしはそれらを精読しようとしたが、そのあさましい信者たちをいかに嘲弄するものであるかに無関心ではおられず、そこから彼らの弁明を撥ね返し、そのような益体もない論議が受け入れられ得ないと判じられた場合には、他の書物に類同なことがらをあらためて探ってみることもなかった。そうした書物で、いま思い出すことができるものとして、「Qui geometriae aut philosophiae peritus expers astronomiae fuerit etc.(星学(天文学)を知らずして幾何学と哲学に精通する者は云々)」にはじまるヘルメスの書『錯覚(手品)の書(リーベル・プラエスティジオールム)』[4]、「Probavi omnes libros etc.(あらゆる書を逍漁し云々」にはじまる『月の書(リーベル・ルナエ)』[5]、この書に「Dixit Balenuz qui et Apollo dicitur : Imago prima etc.(アポロンとも称されるバレヌスは言う。最初の図像は云々)」にはじまるバレヌス(バリナス)の『時についての書(デ・ホラールム・オペレ)』[6]が合冊されている。またこの人の書で「Differentia in qua fiunt imagines magnae etc.(偉大な図像の数々がつくられることになるその相違は云々)」とはじまる『それぞれ分離した四つの図像について(デ・クァトゥール・イマジニブス・アブ・アリイス・セパラティス)』[7]。またヘルメスの諸書のうちには、『水星の図像の書(リーベル・イマジヌム・メルクリイ)』[8]があり、これには幾つかの論考が含まれている。その一つは水星の図像について、他はカラクテル(記号)について、また指輪について、印章(シジッリ)について。書き出しは「Dixit expositor huius libri: Oportet quaerentem hanc scientiam etc.(本書の註解者は言う。この知識を尋ねる者は云々」にはじまる印章について以外は記憶にない。あるいは『金星の書(リーベル・ヴェネリス)』[9]もさまざまな論考からなっている。つまり図像について、カラクテルについて、指輪と印章について。これらの書き出しも「Mentio decem capitulorum atque annulorum Veneris etc.(十章からなる十の金星の指輪について云々)」にはじまる指輪に関する章以外想い出せない。これにつづくのが『太陽の書(リーベル・ソーリス)』で、これの書き出しは「Lustravi plures imaginum scientias etc.(図像の知識の幾つかについて検討してみたところ云々)」。これについてわたしはカラクテルに関する論考だけを見たが、これも上掲したもののように他の論考を含むものであったかもしれないが、それらは翻訳されることなかった。またわたしは上位三惑星について著された単論考を見たことがある。つまり『火星の像の書(リーベル・イマジヌム・マルティス)』[10]、これの書き出しは「Hic est liber Martis quem tractat etc.(これは火星の書、これは(ヘルメス)の著云々」、そして『木星の書(リーベル・イォーヴィス)』[11]、これは「Hic est liber Iovis quem tractat etc.(これは木星の書、これは(ヘルメスの)著云々」とはじまっており、『土星の書(リーベル・サトゥルニ)』[12]は、「Hic est liberSaturni quem tractat Hermes Triplex etc.(これは土星の書、これはヘルメス・トリプレクスの著云々)とはじまっている。これら七書に「Tractatus octavus in magisterio imaginum etc.(図像の教えに関する第八論考云々)」とはじまる論考がつけ加えられる。これらはヘルメスに帰属される著作群に算入されている。こうしたものとしてまた『七惑星の七つの指輪について(デ・セプテム・アンヌリス・セプテム・プラネタールム)』があり、これの書き出しは「Divisio lunae quando impleta fuerit etc.(満ちた月の区分は云々)」。ギリシャのトーツ[13]の書の中には「Commemoratio historiarum etc.(歴史譚を想起するに云々)」にはじまる『金星崇拝にかかわる留(停)について(デ・スタツィオニブス・アド・クルトゥム・ヴェネリス)』[14]、また「Observa Venerem cum pervenerit ad Pleiades etc.(金星がプレアデスに接近した時の観察云々)」にはじまる『四枚の鏡について(デ・クァトゥオール・スペクリス)』[15]、あるいは「Observabis Venerem cum intraverit Taurum etc.(金星が金牛宮に入る時云々)」にはじまる『金星の図像について(デ・イマジニブス・ヴェネリス)』[16]がある。またソロモンの諸書としては、『四つの指輪について(デ・クァトゥオール・アンヌリス)』[17]があり、これらには彼の四人の弟子たちの名がつけられている。この書の書き出しは「De arte eutonica et ydaica etc.(エウトニアとユダヤの業について云々」、あるいは『九燭台について(デ・ノーヴェム・カンダリイス)』[18]、これの書き出しは「Locus admonet ut dicamus etc.(後述すると言った箇所云々)」、あるいは『諸霊の三つの像について(デ・トリブス・フィグリス・スピリトゥウム)』[19]は「Sicut de caelestibus etc.(諸天については云々)」とはじまっている。また、『アルマンダルの像について(デ・フィグーラ・アルマンダル)』[20]の書き出しは「Capitulum in figura Almandal etc.(アルマンダルの像の章云々)」、そして小著『悪魔憑きに対する封印について(デ・シジッリス・アド・ダエモニアコス)』[21]の書き出しは「Capitulum sigilli gandal et tanchil etc.(ガンダルとタンキルの印章についての章云々)」。つづいてマホメト[22]の諸書には、『七つの名の書(リーベル・セプテム・ノミヌム)』[23]の書き出しは「Dixit Mahometh filius Alhalzone etc.(アルハルゾンの息子マホメトは言った云々)」、また『十五の名の書(リーベル・クィンデチム・ノミヌム)』[24]の書き出しは「Haec sunt quindecim nomina etc.(以下が十五の名であり云々)」。そしてラジエル[25]の大冊『教えの書(リーベル・インスティトゥツィオーニス)』、これの書き出しは「In prima huius prooemii parte de angulis tractemus etc.(序の前半は角(枢要点)について論じ云々)」、あるいは著者不詳の『土星の頭について(デ・カピテ・サトゥルニ)』[26]、これの書き出しは「Quicumque hoc secretissimum etc.(誰にとってもこの最大の秘鑰は云々)」。
これらに加え、ヘルメスに帰される二書が見出される。これらは降霊術(ネグロマンツィア)の書というよりは自然学書で、一方は『諸惑星の合に調合されるある種の薬について(デ・クィブスダム・メディチニス・イン・コニウンクツィオーニブス・プラネタールム)』[27]で、書き出しは「Quando Saturnus iungitur Iovi etc.(土星が木星と合するとき云々)」。他方は『四種の調合について(デ・クァトゥオール・コンフェクツィオーニブス)』[28]で、野生の獣や狼や鳥を捕縛するためのもので、これは「Dixit Aristoteles: Vidistine o Hermes etc.(アリストテレスは言った、ヘルメスよ見たことがあるか云々)」にはじまるヘルメスがアリストテレスに宛てた書と同じである。いずれにせよこうした諸書の中で最悪なものがアリストテレスがアレクサンドロスに宛てたもので、その書き出しは「Dixit Atistoteles Alexandro regi: Si vis percipere etc.(アリストテレスは王アレクサンドロスに言った。もしもあなたが感得(理解)したいのならば云々)」。これは『魂の死(モルス・アニマエ)』[29]とも呼ばれているものである。以上が今わたしが想起し得る諸書であるが、その他にもさまざまな書を実見した。その一つは図像にかかわるもので、先述したように、燻蒸、召喚、悪魔祓い(エクソルチザツィオーネ)、呪文記号(カラクテール)銘記を載せている。これら降霊術(ネグロマンツィア)図像群には二種がある。

[1] Almandal of Salomon
[2] Muhameth
[3] Liber institutionis
[4] Hermes, Liber praestigiorum
[5] Liber Lunae
[6] Balenuz [Balinas], De horarum opere
[7] De quatuor imaginibus ab aliis separatis
[8] Hermes, Liber imaginum Mercurii
[9] Liber Veneris
[10] Liber imaginum Martis
[11] Liber Iovis
[12] Liber Saturni
[13] Toz
[14] De stationibus ad cultum Veneris
[15] De quatuor speculis
[16] De imaginibus Veneris
[17] De quatuor annulis
[18] De novem candariis
[19] De tribus figuris spirituum
[20] De figura Almandal
[21] De sigillis ad daemoniacos
[22] Mahometh
[23] Liber septem nominum
[24] Liber quindecim nominum
[25] Raziel, Liber institutionis
[26] De capite Saturni
[27] De quibusdam medicinis in coniunctionibus planetarum
[28] De quatuor confectionibus
[29] Mors animae

第三の類は天文学的図像にかかわるもので、これの中には上述したような穢れはなく、燻蒸も召喚も載せず、悪魔祓いや記号呪文(カラクテール)の銘記も排除されており、ただその力能は天上界の形象にのみ由来するものとされる。たとえば、ある種のものをある場所から駆逐する図像がわれわれの請願を成就させるのは、問い(審問)が受け取られる時にあたり過不足ない数的与件(条件)が付与される場合。もしも意味するものsignificatoresが切り出す図像、その種に似た(類同な)像が昇機(アシェンダント)に投影されるか、問い(審問)そのものの昇機(アシェンダント)の下にあるなら、昇機(アシェンダント)とその主(惑星)は死の宿の主によって損なわれるか、邪悪惑星が逆位あるいは四分相にあって相互に受けつけ合わないか、昇機(アシェンダント)の主の宿の主と月および月の宿の主と幸運の箭(部分)parte fortunae、またこれの主と時の主は損なわれない。また幸福(善)惑星が昇機(アシェンダント)、枢要点、また昇機(アシェンダント)の三角相から取り払われてあるなら、月を昇機(アシェンダント)のデカンおよび星座に据える。このような図像が完成され、これに他のある諸条件が観察されるならば、その種そのものが消滅してほしい場所の中央にこれを埋め、枢要点(四方)から集めた土をこの場所にかけ、図像の腹の上に据える。一方、図像が愛や利益を得るためにつくられるものなら、上に述べたところと逆をなし、それのかたちを選ばれた時に印刻する。そうすればこれは神の指示(命令)により天界の力能から(善い)効果をうけとることになる。なぜなら、この可感的世界において四元素からつくられる図像は、天界の図像(星座)に従うから。そのうちの幾つかはその名のうちに存する事物およびその創造に密接に関係しているが、他は奇蹟的でわれわれから隔絶しており、知性の深みからその理拠的評価が立ち昇ってくる。
こうした図像群はコーラの息子テービット[1]の書に見つかる。これは「Dixit Thebit Benchorat: Dixit Aristoteles qui philosophiam etc.(テービット・ベンコーラは言う。アリストテレスの哲学書にいわく云々)」にはじまるもので、これには幸運fortunaおよび阻害impedimentoの図像、富と商売の、支配権と統治権の、合一と分離のための図像が載せられている。これらは星辰図像群imagine astronomiaeであるが、これらが上述したように降霊術(ネグロマンツィア)図像としてもちいられてきた。これとはまた別の書があり、こちらは「Opus imaginum Ptolemaei etc.(プトレマイオスの図像著作云々)」とはじまるもの。ただしこれらのうち昇機(アシェンダント)を基としてつくられた図像(個々の図像がその昇機(アシェンダント)にあるときにつくられたもの)sub quo ascendente sint imagines singulae faciendae以外は何の力もなく、無益である。この諸条件が秘密の降霊術(ネグロマンツィア)にかかわるものであるなら、健全な思惟には弁明の余地ない諸他の書物とともにこれは許されるものではない。

[1] Thebit filii Chorae

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?