最終皇帝伝説――レジセルムスの解釈 3
〔第三の碑文〕〔図〕
A スルタヌス・メケメティス、彼こそコンスタンティノープルを占拠するだろう。
B 湿った場所で、汝は希望を失うだろう。というのも汝のうちではじめとおわりは角(凶兆、邪眼、祓うべきもの)であるから。
C 汝は聴く耳をもつばかりか、愛なしに手綱をとろうとする(愛つまり色欲をもつ)と評判である。
〔解説〕
どうやらギリシャはバルドゥイーノ二世をもって異邦人の鷲の支配から離れ、土地の人ミカエル・パレオロゴスによる別の新たな支配のもとに入ったもののようである(他の者たちによれば、その間にアレクシウス、アンゲルス、テオドロス・ラスコロス、ヨハネス・デプロバタティウスが皇帝となっている)。図中でギリシャ装束をまとい喜ぶ若い娘として描かれているように、これを新たな花嫁として。しかしこの喜びも正午に彼女から取り去られた。「角ある馬によって」踏みつけにされて。格言Bで娘について、「湿った場所で希望を失う云々」と謂われているのは、あたかも湿った場所、汝ギリシャの支配がより幸先良いものに見える時に、自らの思い上がりによって汝を迎え入れずに失墜することになる、と言うかのようである。汝の中にこそはじめにもおわりにも凶兆(角、裏切り)がある、つまり汝のうちにこそ支配に関する凶兆(角、裏切り)の端緒があり、これは終端にもそうであろう、と。この角ある馬が誰のことであるか、格言Aに明らかである。それはコンスタンティノポリスを奪取することになるスルタン・メへメト。このスルタン・メへメトがギリシャ帝国を占拠することとなり、ヴィテルボのミカエル・パレオロゴスを後継する皇帝コンスタンティヌス五世をもって、1453年ギリシャ帝国は終焉し、マホメット教徒の七皇帝を耐え忍ぶことになる。この帝国がどのようにしてメへメトの掌中に落ちたか、オスマン朝トルコ、ギリシャの歴史家たちが言うところによると、ミカエル・パレオロゴスは後継者としてアンドロニコスを遺し、また彼には二人の息子カロイアンニスとエマヌエルがいた。その後見をヨハネス・カタクンゼノに任せ、自らの娘を娶せた。その後、カタクンゼノと正嫡の子の間に不和が生じ、カタクンゼノは自ら皇帝となったが、カロイアンニはカタクンゼノを禁治産となし、彼は修道士となった。このカロイアンニには息子エマヌエルがあり、この子は父を継いで皇帝となり、また七子ヨハネス、アンドロニコス、テオドロス、コンスタンティヌス、デメトリオス、トマス、ミカエルを設けた。この皇帝エマヌエルの時代、メへメトがトルコ皇帝となった。彼は海戦でヴェネト人たちに敗れた後、彼らと和平を結んだが、弟のムスタファに襲撃され、ムスタファはサロニケに逃亡した。これを知ったメへメトは軍隊を率いてその地の行政官にムスタファの引き渡しを具申した。この行政官はギリシャ皇帝エマヌエルに事情を書き送ると、エマヌエルはメへメトに同意し、ムスタファを幽閉することを約す、という返事を受け取った。メへメト一世の死まではこれが順守され、このギリシャ人たちの対処はメへメトの気に入り、彼はギリシャ人たちの一々の要求に応え、ギリシャは平和を大いに享受した。もしも皇帝エマヌエルが帝国を息子たちに割譲しようなどとしなければ、新たな花嫁は平静に憩うていたことだろう。息子たちの不和はオスマン朝を増長させ、ギリシャは滅びへ向かった。エマヌエルが没すると、長男ヨハネスが皇帝となり、つづいてコンスタンティヌスが平和に統治した。ギリシャ人たちはメへメト二世と同盟を結んでいたが、平安は長くつづかなかった。というのもメへメトは横柄で嫉妬深くなり、同盟を守らず、同盟と誓いを度外視してBogazafor(Bogazator)と呼ばれる要塞をつくり、ギリシャ人たちの敵であることを露わにするに到った。そしてコンスタンティノポリスの周囲を攻撃しはじめ、大軍と弩弓をもって都を攻囲し、ついに1453年この都を支配するに到った。メへメトは数々のぺてんと欺きをはたらき、信仰など商人たちに任せておけ、君主は自らを強大にすることだけを望む者である、と嘯いた。彼は狡猾で才知に長けた、キリスト教徒の険しい敵であった。