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ロバート・フラッドの「土占い(ゲオマンティア)」2


Liber Primus De compositione Geomantica.
Cap.I. De principio interno Astrologiae terrestris seu Geomantiae.

地上の占星術あるいはゲオマンティアの内的原理
イングランドの栄光の王女エリザベスの王朝の最後から二年目(1602)、厳冬の中、サン・ベルナール山の深い雪に埋まり、イタリアへの道を完全の閉ざされて、この冬中わたしはアヴィニョンの町にとどまることを余儀なくされた。その折わたしは、イエズス会で学んだ教養ある他の若い貴顕たちとともに某隊長の館に迎え入れられた。或る夜の宴会で彼らと哲学について語りはじめた。するうち占星術的ゲオマンティアについて彼らがわたしとは異なった見解をもっていることが分かった。彼らのうちの或る者たちはこれの価値を完全に否定する一方、わたしを含めた他の者たちはこの業の力について粘り強く擁護した。わたしはこの知識に十分精通していることを示す数々の議論をした。食事が済み、わたしが部屋へ戻ろうとすると、彼らのひとりがわたしを部屋まで追ってきて、われわれの友情にかけてこの業を試してほしい、と問うた。彼はその結果について大きな不安を表明しつつ、その疑念を払拭できるならすばらしい、と。わたしは何度もこの申し出を辞退したが、結局同世代の者たちの言うところに従った。そこでわたしは示された質問にゲオマンティアの図像の投影をした(を投じた)が、その結果は以下の通りだった。彼が激しい愛情を抱いているは、はたして他の者たちよりも彼に心底から報いてくれるだろうか。図像を投じ、わたしは彼が愛するものの性格と身体的性向(容姿)をいまや十分に説明する準備ができ、正確にそのの容姿と背丈だけでなく、その身体にある明確なしるし、左の瞼にある疵(疣)についても語った。彼はこれをはっきり認めた。またわたしは彼女が葡萄園にいるのを好むことについても告げた。これまた彼は歓喜して認めて言った。彼女の母親が葡萄園の中に館を立てたからに違いないと。さらにわたしは示された問いに答えた。彼が愛するものは移り気で、自らよりも他の男を愛するほど不安定である、と。これについて、彼は強い疑惑を抱いていたが、いまや確信に変わった、と彼は言った。彼はわたしの部屋を足早に出ていくと、彼の仲間たちに驚きとともにわたしの業とその力能について語ったのだった。
しかしこのをよく知る幾人かは、娘の瞼の上のしるしを完全に否認し、わたしがゲオマンティアの業について解説したことの真実について翌日まで語り合った。しかし彼らは証人たちが一致して(わたしの肩をもって)いることを見逃していた。さらにそれはわたしの想像を超えて、その声がイエズス会士たちの耳にまで届いたことを報された。彼らのうちのふたりが密かに館を出て、教皇特使代理(裁判官?)のもとに急行して、すべてを伝えたのだった。憤慨しつつ、英国人の某がカトリック教会が譴責する知識つまりゲオマンティアによって未来を予言した、と。わたしは翌朝、これをヨハンという名の館の隊長から聞かされた。彼は教皇特使代理がこれに対してなした返答が次のようなものだったと確言した。おまえが言うほど忌わしいことではない、じつのところイタリアの枢機卿たちの中には、占星術やゲオマンティアに準じて自らの誕生星図をつくらせた者もあるではないか、と彼は言ったと。数日後、この教皇特使代理が自らわたしと語りたいと、丁寧にわたしを彼の昼食に招待してきた。わたしは親しい友で教皇の薬剤師であるマルソー殿と館へ向かった。そこでいつものように敬意をあらわすと、教皇特使代理はこう、わたしとの会話をはじめた。彼は言った、「汝がゲオマンティアの業に精通していることは知っている。汝はこの知識について内心どう思っているのか」。わたしは答えた、「わたしはわたしの実修をもってこの知識が確かなものであるとともに、隠秘をもととしたものであることを示しました」。彼は言った、「なにを言っているのか、偶然配置された点の数々のなかに確実さがあると言うのか」。わたし、「人の手によるこれらの点の端緒と発端は内的なものであり、確かに内的本質にかかわるものです。その運動は魂が発端となったものであるから」。さらに「この知識の過誤の数々は魂によるものではなく、身体の欠陥のある運動によるもので、魂の意図(指向intentio)およびゲオマンティアの一般則に反して実修がおこなわれることにある」、と付言した。「魂は静穏で、身体はこれに服従しているばかりか、身体も魂も一切乱れなく、なんの介入も受けることなく、公正な裁判官のようでなければならない。真実があらわれるようにこころから神に祈りつつ、実修者は据えられた質問に集中し、他の考えに乱されないように」と。彼は言った、「どの魂の話をしているのか。それはプラトンのダイモーンのことか、あるいはすくなくとも誰か天使であるのか」と。わたしは答えた、「天使はこの業の淵源ではあり得ない。というのも天使たちは善と悪に分けられるから。善天使たちがこの業の発明者たちである異邦人(異教徒)たちつまりアラブ人、カルデア人、エジプト人たちにあらわれることなどめったにないから。一方、邪悪な天使たちが真実ではなく噓の発明者たちであることは聖書に証されている」。

彼は言った、「つまり汝自身、この知識の端緒にある確実な理拠を識別できない、ということは明らかだ」。わたしは彼に返答した、「人の身体は奴隷が主人に向かうように魂に向かう。というのも主人は奴隷をあちこちへ遣わすことができる。奴隷が主人の意図intentioを解することなしに。また偉大な画家は王に讃嘆すべき彼の下男の絵画を送ることができる。たとえこの下男が色の混ぜ方をも対称比率をまったく知らないにしても。それに王は民に税を課すことができる。たとえこの税の動機を知るのが王だけであっても。身体は魂が密かに命じるところをなすことができるが、身体はさまざまな過誤を介すことなしに、その動機には一切関知しない」。
これを聞いて、教皇使節代理は司教たち助祭たちが見守る卓にわたしを呼び出し、そこでペンその他をとり、ゲオマンティアの形象の一つを描くと、わたしを彼に告発したイエズス会士たちについて学識深く語った。実際、彼はわたしよりもずっと博識で、はるかにこの業に精通していた。昼食が終わると、わたしは彼の善意に謝辞を述べ、その後彼のもとをしばしば訪れるようになった。彼は求学心の強い教養深い人で、異邦人にも寛大で、専横なところが一切ない人だったから。
これはイエズス会士たちの間にも広まり、彼らの中にもわたしとともにこの哲学博士との対話を望む者が増えた。わたしは気概に溢れる温和な若者でたいへん親しいライノオの願いを聞き入れ、彼のもとに赴いて歓待された。そこで何か哲学的な話をした後、彼はゲオマンティアの知識に話題を移した。おそらくこれについて気楽に話す相手が欲しかったのだろう。彼は言った、「誰か、ゲオマンティアによって、たとえば誰かのローマへの旅の危難あるいは死を予言する力をもつことは可能だろうか。主体(質問者)の魂と実修者の魂の間に関係を定める交渉とは何だろう。また各人の身体の中にある魂に対して、これら(質問者と実修者)の魂はどのような役割を果たすのだろうか」。quid est participationis et communicationis inter animam illius, et tuam, cum amba contineantur intra corpus humanum
わたしはこれに簡潔に答えて言った。「各々の魂は心臓(こころ)の孔で光と化し、身体の諸他の部分を司る。これは太陽が天界で諸他の星辰に果たす役割と異ならない。それはまさに小世界(ミクロコスモス)の太陽となり、身体の総体をその活気づける光線によって導く。これ(身体)は不可視の光線を身体の孔から不可視のままに発する。まさに天界の太陽がその光線を下位なる諸元素の篩を通して伝達するように。またこれは或る星辰の相(アスペクト)が他の星辰との関係であり、これを介して下位のものごとが管轄され、これら(相)の影響が下位世界に産生されることでこれが決定し応用されるものであるように、魂もまたその不可視の光をもって相互に光を発しあい、この発出によって質問者の魂と解釈者の魂が結びつき合う(発出した光が到達する)。ここでこれ(魂?相?)そのものが危険を課すものとなったり、友(親和)となったりする。魂はたいへん神的なものであり、身体の守護者として、これ(身体)の未来の危険を予見し(不死なるものとして未来と現在を同時に知ることができる)、身体には秘された未来を魂に(が?身体に)説く。これはその濃密さのせいで身体にはできない(語り得ない)ことである。こうして魂は彼(身体?実修者?)の平静と平安のもと、判断のための準備を整える(判断を配置する)。これはその魂による体の動きに従属しおおきく依存するものであり、困難なしに予言することが可能となる。

「オラウス・マグヌス(1)は『フィンランド史』で、郷土の魔術師たちに関するさまざまな驚くべきことがらを伝えている。その中には、或る魔女が、誰か友人たちの行動について知りたい者の訪問を受けた時の対応についても書かれている。もう一人の女とともに部屋に入ると、まず幾つかのことばを低声で呟き、つづいて青銅の蛇を取り上げ、その尾を掴んで、二、三度金槌でたたく。するとたちまち眠りこけ、伴連れが蠅その他が邪魔をしないように配慮する。この催眠状態が半時間ほど続いた後、魔女は目覚めると、訪問者の友たちの報せをあたえる。
(1)オラウス・マグヌスはスウェーデンの聖職者で1555年に『北方の民の歴史Historia de gentibus septentrionalibus』を公刊している。

彼女の魂がこの人物の魂に入り、交渉することができないなら、いったいどうしたのだろう。その魂の光線の軌道の直径の半分(半径)は問題の人物(質問者の親族の友)の魂の末端に届く(光線の軌道が重なる)には短かすぎるに違いない。それゆえ質問者の望みをかなえるには魂は身体を出て、この友たちの魂の光線(半径)と交渉して重なることができる場所まで遠ざかる必要があった。魂の光線(動く光線)は目に見えず、目に見える光線よりもはるか身体の外にまで広がっているので、そこに到達すると、魂は接触することを得て、他の魂の光線と交渉に入る。これはその基体の元素(本質)化(単一元素への還元)essentificae sua substantiaeによる精妙さ(流動性)と純粋(清浄)さによるもので、気の元素を介して、それらの形相の高位性とその出自の至高性によって、障害なしに貫入(浸透)する。

われわれはこの主題について語り合った。最後に彼はわたしに接吻し、これからはわたしのことを兄弟とみなすと誓い、わたしに伴連れとともにもっと頻繁に訪ねてきてほしいと言った。しかしこの望みをわたしはかなえることができなかった。というのもわたしはマルセイユのグイサ公のもとに赴くため、早々にこの町を離れることになったから。公はその地で彼とマルタの騎士団の兄弟たちequitem Melitensem にこの卓越した算術(占星術)Mathematicas scientiasを教授するよう、わたしを招聘してきたのだった。
要するにこの業は魂そのものがその根源となって、直接魂からもたらされる知解であり、壊敗する(可滅的な)この世で人が感得できる知識のどれよりも精妙なものである。


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