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【ChatGPT o1 pro小説】酔生夢死
第1幕 ──沈む街、沈む心──
天井の蛍光灯は、かすかにチラつきながら薄暗い六畳間を照らしていた。埃がたまった扇風機が軋むように回り、湿った空気を足元に押しやる。
浦野篤(うらの あつし)は、畳の上に散らばる空き缶の一つを無造作に手に取り、中身がもう残っていないとわかるとわずかに顔をしかめた。昨夜……いや、つい数時間前にコンビニで買った安酒の缶だ。すっかりぬるくなったその残りが喉を潤すことはない。
「また昼か……」
壁に掛けた時計の短針は、すでに十二時を回っている。深夜の倉庫作業から帰宅したのが朝方だったせいで、朝日はとっくに見逃している。
頬を掻きながら立ち上がると、窓の外に広がるのは寂れた商店街の裏通りだ。かつて観光客を呼び込もうと取り付けられたらしいアーチ看板は、文字がはげ落ちて意味を成さない。シャッターの下りた店が並ぶ様子は、まるで灰色の地層が連なっているかのようだ。
「飯でも買いに行くか……」
誰に聞かせるわけでもない独り言をもらし、篤は財布を探してごちゃついた部屋を見回した。古びたマットレスの下からようやく見つけた財布は、いつも通り薄っぺらい。ここ数カ月、通帳をまともに見ていないが、残高が増えることなどあり得ない。
どこかで嗤うようにカラスが鳴いている。そんな音すら、彼の耳には通り過ぎる風と変わらない。
スナック「杏(あん)」へ
コンビニ弁当を片手に戻ってきた篤が、昼過ぎに向かう先は商店街のはずれにあるスナック「杏」。ドアの上には赤いネオン管が申し訳程度に飾られているが、昼の光の前では存在感を失っている。
とはいえ、ここはこの街でも数少ない“昼から飲める店”だ。長年の常連たちが屯する場ともいえる。
「いらっしゃい……って、浦野さんか。珍しいね、こんな時間に。」
暗がりの店内で、ママの加藤菜摘(かとう なつみ)はカウンター越しに篤を迎えた。地元では「加藤ママ」と呼ばれ親しまれているが、その顔にはくっきりと疲労の色が浮かんでいる。
客は他に二人。奥のボックス席では高齢の男性が酒を舐めながら新聞を読んでおり、カウンターの端には見るからに疲れ果てた中年女性が座っている。カラオケのリモコンはテーブルに転がったまま、電源が入る気配すらない。
「仕事、いつもの夜勤だろ? 夕方まで寝てるんじゃなかったの?」
加藤ママが気遣うように声をかける。篤は肩をすくめ、乾いた笑いを浮かべた。
「なんとなく目が覚めちまって。寝ぼけてるほうがマシだったけど。」
「じゃあ、ビールにする? それともいつもの焼酎?」
篤は遠慮なく「焼酎でいい」と応じた。昼日中から体にアルコールを流し込み、頭をぼんやりさせる。結局、いつものパターンだ。
グラスに注がれた透明な液体を一気に煽ると、胃の奥が熱くなる。その感覚にほっとする自分が情けなく、思わず口角が歪む。
店内の会話
「……ところで篤さん、あんた仕事どうするの? 今の倉庫、閉鎖するって噂あるわよ。」
加藤ママがそう言いながら、テレビのワイドショーを無音で流す画面を指差した。そこでは、どこかの企業の業績悪化だとか再編だとかが報じられている。
篤は「さあね」と言葉を濁した。新聞もテレビもまともに見ない彼だが、倉庫の上司がぼやいていたのを思い出す。「今のままじゃうちはもたないかもしれない」──確かにそう言っていた。
「まぁ、どうにかなるんじゃないすか。働くとこなくなりゃ、生活保護もあるし……」
「そんなこと言って。ホントになったら困るのはあんた自身だよ。」
呆れ顔の加藤ママの横で、カウンターの端に座っていた中年女性が低く笑った。
「世の中、どうにかならないことだらけだよ。どうせなら、気楽に飲んでりゃいいんじゃない?」
それを聞いて加藤ママが少し眉をひそめる。店の空気は沈んだままだ。それを打ち消すように、ママはテレビのボリュームを少し上げた。
また誰かが政治批判をしている。誰かが芸能人のスキャンダルを晒している。そこにある現実感は、篤にとってはまるで遠い国の話のようだ。
古びた町並み
一杯目の焼酎を飲み干し、二杯目に手を伸ばしたところで、ふと篤は虚ろな視線を店の窓へと向けた。ガラスの外には、かろうじて生き残った個人商店が数軒見えるが、どこも客足はまばら。
顔なじみだった八百屋は先週で店じまいした。隣のクリーニング店は「テナント募集」の張り紙が張られている。誰も借り手など見つからないだろう。
「この街、ホントに終わってるよな……」
心にもない感想が口を衝いて出る。心の底から街の未来を憂えているわけでもない。自分もまた、その終焉に溶け込んでいる一部でしかない。
グラスをまた口に運ぶ。舌が少し痺れるような感覚。頭がボーッとして、考えるのが面倒になる。すると同時に、「このままでいいのか」などという問いは霧のように消えていった。
路上に響く詩
午後三時過ぎ、スナックを出た篤は、まだ陽の明るさが残る商店街を通り抜け、コンビニへ向かった。煙草を買うつもりで足を進める。
すると途中の空き店舗の前に、見慣れない男が腰を下ろしていた。白髪混じりの長い髪を後ろで束ね、ボロボロのノートをめくりながら何か書いている。
「……なんだあれ。」
篤が足を止めると、男はこちらを見上げた。その目は鋭いようで、どこか浮世離れした色を帯びている。
男はニヤリと笑うと、ノートを破った紙切れを篤に差し出した。そこには意味ありげな文句が綴られている。
いつか醒める日夢と知りながら
酔いに溺れて足元を見ず
「はぁ?」
何を言いたいのか理解できず、篤は苛立ちを含んだ声を漏らした。だが男は無言で立ち上がり、衣の裾をひるがえすようにして去っていく。
路上に一瞬だけ流れる風のように、その姿はほとんど音も立てず消えていった。
「……変な奴。」
紙を丸めて捨てる。コンビニのゴミ箱に放り込むと、それは途端にどこかへ消えた。まるで最初から何もなかったかのように。篤はまた足を進める。
倉庫へ向かう夜
結局、この日は何の出来事もないまま、篤はコンビニで煙草を買い、家に戻って仮眠をとった。
夜十時、目覚ましのけたたましい音が部屋に響く。篤は頭を抱えながら起き上がり、同じ作業着を身にまとって家を出る。向かう先は町外れの倉庫だ。
蒸し暑い夜道を歩きながら、さっきの路上詩人の顔が少しだけ頭をよぎる。だが、その考えもすぐに薄れた。
どうせ一晩働けば、また朝が来て、昼に起きて、スナックで酒を飲む。いつもと同じルーティンだ。抜け出す気もないまま、毎日が過ぎていく。
遠くで犬の吠える声がかすかに聞こえ、またどこかの家でテレビの音が漏れ聞こえる。それらに混じって、夜風がひゅうと吹き抜ける。篤は溜め息の代わりに、また一本煙草を取り出し火を点けた。
──これが自分の人生だ。特に不満はない。いや、不満を感じるほどの欲も、もう残っていない。
(いつか街は消えて、俺も消える。その日が来るまで、こうして生きてりゃいいさ……)
胸の内でそう呟いた篤の瞳には、すでに何の光も映っていない。ただ、倉庫へ続く暗い道がそこにあるだけだった。
第2幕 ──揺れる機会、動かぬ意思──
寝不足が祟ったせいか、倉庫作業中に頭がクラクラする。浦野篤(うらの あつし)は、業務用のフォークリフトの背もたれに寄りかかり、ほんのわずかな休憩時間に目を閉じた。
夜勤もそろそろ終わりだ。朝日が顔を出す頃、倉庫を出る頃には身体は鉛のように重くなる。それでも日々同じことを繰り返しているのは、今さら何か変える気も起きないからだろう。
(本当に、倉庫が閉鎖になるかもな……)
深夜の薄明かりに照らされながら、上司がぼそりと漏らした「業務整理」の話を思い出す。仕事がなくなれば収入も断たれるが、篤にとっては「なんとかなるだろう」という漠然とした思いがあるだけで、切実さは感じられない。
フォークリフトが動き出す音が合図のように、篤は重たい腰を上げた。
幼馴染との再会
倉庫を出たのは朝の六時過ぎ。倉庫街から商店街の裏通りを抜け、自宅アパートへと向かう道すがら、見慣れた横顔を見つけて足を止めた。
小嶋 孝志(こじま たかし)──篤の幼馴染が、古い商店の前でキョロキョロと周囲を見回している。かつて地元を離れ、都会で就職したはずだ。
「……孝志?」
声をかけられた小嶋は、驚いたように振り返った。だが、その表情はすぐに柔らかな笑みに変わる。
「篤か。やっぱりお前、ここに住んでたんだな。あのボロアパート、まだ残ってる?」
「ボロいって言うなよ。……ていうか、いつ帰ってきたんだよ。」
無愛想に返す篤に、小嶋は苦笑する。どうやら急病の両親を看病するため、一時的に戻ってきたらしい。今日は朝から役所へ行く用事があるという。
「すぐにまた都会に戻るかもしれん。親父もお袋もだいぶ良くなって、介護サービスが整いそうなんだ。俺もいずれは地元を離れなきゃならんと思ってるけど……」
小嶋の言葉が途切れたとき、篤はどこか他人事のように薄い感情で相槌を打った。
「ふーん、大変だな。」
本音を言えば、小嶋のことは嫌いではない。昔は一緒に釣りに行ったり、ゲームに熱中したり、楽しい時間を共有してきた仲だ。
けれど今、こうして再会したところで、自分たちに共通の話題などあるのだろうか。都会で仕事をバリバリこなし、将来設計もある程度考えているらしい小嶋と、何も成し遂げずにただ日々をやり過ごす自分。その差はあまりにも大きく感じられた。
「そうだ、久しぶりにメシでもどうだ? 今度の夜、空いてる?」
小嶋は笑顔を崩さずに誘ってくる。篤は一瞬ためらったが、まあ断る理由もないと思い、曖昧な肯定の返事をした。どうせ夜勤が終わった後の時間なら、いつものスナックで飲む代わりに小嶋と会うくらいは問題ないだろう。
再会の余韻
家に帰る途中、商店街を歩いていると、どこからか怪しげなメロディーが聞こえてきた。ふと視線をやると、あの路上詩人らしき男が空き店舗の前でハーモニカを吹いている。
相変わらず白髪混じりの髪を後ろで束ね、ボロボロのノートを脇に置いている。篤は足を止める気も起こらず、そのまま素通りしようとした。
「……今度は何もくれないのか?」
その男は、ハーモニカを下ろして低く呟いたように見えたが、篤は振り返らない。今日も怪しげな紙切れを押しつけられたら鬱陶しいだけだ。男のつぶやきが幻聴なのか、本当に言われたのかもわからないまま、篤はアパートへ戻った。
冴えない午後
翌日、夜勤を終えて昼過ぎに起きると、いつものスナック「杏(あん)」へ向かう。扉を開けると、加藤ママが眠そうな目をしながらカウンター越しに振り返った。
「あれ、昨日は来なかったわね。」
篤は軽く頭をかきながら席に腰を下ろす。
「ちょっと野暮用でな。別に大したことじゃないよ。」
「ふうん……」
それ以上は追及してこない。ママもわざわざ人のプライベートに踏み込むほど暇ではないらしい。店内には数人の常連客がいて、それぞれが自分の話を延々と繰り返している。
篤は「いつもの焼酎」を頼み、まずは一杯目をゆっくり口に含んだ。アルコールが胃に落ちるにつれて頭がぼんやりし、思考が薄れていく。その感覚が、今や唯一の安らぎと言ってもいい。
しかし、その日はなぜか飲み始めても心が沈まなかった。正確には、微妙に胸の奥がチクチクするような気配がある。昨日会った幼馴染の小嶋の笑顔が脳裏をよぎる。
(──久しぶりに会うけど、どんな話をしようか。)
そんなことを考えている自分に気づき、篤は自嘲する。どうせ仕事の話をされても興味は湧かないし、自分の現状を語れるわけでもない。
何も変わらない。何も始まらない。そう思いながらも、焼酎のコップは空になり、二杯目、三杯目と進んでいく。
小嶋との食事
夜、倉庫作業が休みの日を選んで、小嶋と約束していた居酒屋へ行く。駅前にまだ数軒だけ残るチェーン系の店だ。程々に客は入っているが、大都会のような賑わいとは程遠い。
メニューをめくる篤に、小嶋は興味津々という顔で話しかける。
「そういえば、お前はずっと地元に残っているんだよな。最近の生活はどんな感じなんだ?」
問いに対して、篤は取り繕うことなく答えた。
「夜勤のバイトしながら、あとはまぁ……適当に過ごしてる。スナック通いと、たまにパチンコくらいかな。」
悲壮感や焦りがあるわけでもなく、ただ淡々と事実を告げるだけ。小嶋は少し言葉を飲み込んだようだったが、すぐに声をかけてくる。
「お前さ、その……俺の勤め先、今ちょっと人手が足りてなくて。部署違いだけど、応募してみないか?」
都会の企業で管理職クラスまで昇進していると噂に聞いていた小嶋。そんな彼からまっすぐな提案を受け、篤は思わず苦笑する。
「へぇ、そうなんだ。」
「俺のツテで紹介できるかもしれない。もちろん即決しろってわけじゃないけど、もし興味があるなら……」
「いや、いいよ。都会でちゃんと働くなんて俺には無理だし……それに、金があれば幸せってわけでもないだろ。」
小嶋の目がほんの少し曇った。昔はこんなふうに拒絶する言葉を口にする篤ではなかったはずだ。いつのまにこんなに諦観を抱くようになったのか。
しばしの沈黙が流れる。店内のBGMと隣の客の笑い声が遠く聞こえた。
「そっか……わかったよ。」
小嶋はそれ以上強く勧めなかった。二人はビールを交わし、懐かしい昔話をいくつかしたあと、ぽつりぽつりと近況を交換する。温度の低い会話だが、かろうじて「友人同士」の形は保っている。
会計を済ませ、店を出るころには時計の針は九時を回っていた。小嶋が通りの向こうでタクシーを拾おうと手を挙げ、篤に別れの言葉を告げる。
「……また連絡する。じゃあな。」
「おう。気をつけて帰れよ。」
タクシーのテールランプが夜道に消えるまで、篤は突っ立ったまま見送った。しかし、その後すぐにいつものスナックへ足を向けようかどうか考えるうち、何とも言えない倦怠感に襲われる。
結局、まっすぐアパートに帰って眠りについた。
消えゆく光
翌日、スナック「杏」に顔を出すと、加藤ママが暗い表情で店を開けていた。カウンターには品の良いスーツ姿の男が座っており、店の物件を査定するかのように壁や天井を見回している。
「……ママ、どうしたんだ?」
篤が声をかけると、加藤ママは苦い笑みを作る。
「どうしたもこうしたもないよ。家賃の滞納もあるし、客足も減る一方でね。ついに大家さんから“正式に退去か、条件を見直すか”って話をもらってる。」
スーツの男は不動産会社の人間らしい。この町の再開発計画は頓挫したが、それでも物件を転用しようとする動きがあるのかもしれない。
かといって、店をやめて街を出るだけの体力も残っていない──そんなママの心情がひしひしと伝わってくる。
「店を閉めるかもしれないのか?」
「うん、そうなるかもね……ま、先のことはわからないけどね。」
そう言って淡々とグラスを拭くママの横顔に、微かな諦めと疲労が混じった色が浮かぶ。普段は客の愚痴を受け止め続ける彼女も、どうにもならない現実の重みを抱えているのだ。
いつもなら篤は、それをどこか他人事のように聞き流したかもしれない。だが、今日はわずかに胸がざわつく。理由は自分でもよくわからないが、小嶋が戻ってきたことと関係があるのかもしれない。
それでも、行動に移るわけではない。篤はいつものように焼酎を注文し、ゆっくりとグラスを傾ける。救いのない時間をやり過ごすために。
悪酔いの果て
その晩、篤は珍しく泥酔するまで酒を飲んだ。周囲の常連客が「大丈夫か?」と声をかけても、にやけ顔で「ああ、平気」と答える。
店を出る頃には日付が変わっていた。帰り道の足取りはおぼつかず、古びた街灯がところどころ消えかけているのをぼんやりと見つめる。
酔いに任せてふらつく身体を支えようとしたそのとき、不意に目の端に白髪混じりの男の姿が映った。あの路上詩人だ。
男は相変わらず空き店舗の前にしゃがみ込んで、ノートを開いている。篤は近づく気力もなく、そのまま素通りしようとする。
しかし男が低く鼻で笑った気がして、篤は一瞬立ち止まった。振り向いてみると、男はにやりと唇を歪め、今度は紙を差し出す様子もない。ただ、静かにこう呟くだけだ。
「……目の前にあるものを放り出して、夢を追った気になるのもいい。だが、お前は何も追わずにただ酔っているだけさ。」
「……なにが言いてぇんだ。」
呂律の回らぬ舌で問い返す篤に、男は答えず、夜の闇へと紛れていく。その姿はまるで最初から存在しなかったようだ。
篤は頭が割れるように痛み出したのを感じ、口からこぼれそうな嘔吐感を必死にこらえながらアパートへと足を急がせた。吐き気とともに、心の奥底に何かが突き刺さっているような感覚がある。だが、それが何なのかははっきりとわからないままだった。
第3幕 ──去りゆく人々、残り続ける空虚──
翌朝、浦野篤(うらの あつし)はいつものように倉庫の夜勤を終えて家に戻った。夜勤明けの身体は重く、頭の芯に鈍痛が残る。それでもシャワーを浴び、粗末な寝床に倒れ込む。昼過ぎに目が覚めたとき、窓の外は相変わらず灰色の空が広がっていた。
倉庫が閉鎖されるという噂は、いよいよ現実味を帯び始めている。上司が「来月までには整理する」と言っていたのを思い出しながらも、篤の心には切迫感が湧かない。こんな街でも、仕事がなくても、どうにか生きていけるという根拠のない確信がある。それは“生きたい”という意志ではなく、“変わりたくない”という執着に近かった。
スナック「杏」閉店の噂
いつもの昼下がり、篤はスナック「杏(あん)」の扉を開けた。だが、店内にいたのは加藤菜摘(かとう なつみ)ママ一人だけで、客の姿はない。
加藤ママはいつものようにカウンターでグラスを拭いていたが、その動きはどこか力がこもっていなかった。
「……客、いないんだ?」
当たり前のようにカウンター席に腰を下ろしながら問いかけると、ママは小さく溜息をつく。
「ずっとこんな感じ。あんたくらいしか来てくれないんだから、そろそろ本当に店、畳まなきゃかもね。」
「そう、か……」
篤の返事には実感がこもらない。酔生夢死に慣れた日常を支えていた店が消えるかもしれない──それは本来なら衝撃的な事態だが、篤にとっては他人事のように思える。
いつもの焼酎を口に運びながら、ぼんやりとテレビを眺める。そこでは、都会の新施設オープンを祝う華やかなニュースが流れていた。ナレーションが「地方に元気を届けたい」などと他愛もないコメントをしているが、篤には何も響かない。
「……大丈夫よ、きっと。また再開発の話が持ち上がるかもしれないし。」
口先だけの楽観を繕う加藤ママの声も、篤の耳には白々しく響くだけだった。
幼馴染との決別
スナックを出ると、街の雑踏の中に小嶋 孝志(こじま たかし)の姿を見つけた。小嶋はやや深刻な表情で、篤を見つけると足早に近づいてくる。
「篤、探してたんだ。ちょっと話がある。」
人気のない路地裏に連れて行かれ、そこで小嶋は切り出した。
「……俺、やっぱり近々この街を出ることにした。親父とお袋の介護サービスがもう少しで落ち着くし、残っても先がないからな。」
そう言う小嶋の顔には、どこか申し訳なさが浮かんでいる。
「悪いけど、もう一度だけ聞く。お前、本当にこのままでいいのか? 都会に出るのがイヤなら、せめて別の会社に移るとか……こんな街でも何かできるかもしれないだろ?」
その問いに、篤は曖昧に笑ってみせる。どこか自嘲の混じった笑みだった。
「考えてみるよ。……でも、すぐには動けないかな。倉庫がどうなるかもわからないし、俺自身も特にやりたいことないしさ。」
「……そうか。」
小嶋が深く息を吐く。その目には失望が滲んでいるのがわかった。だが、篤はそれ以上かける言葉もなかった。
小嶋は諦めたように肩を落とすと、「連絡はくれよ」とだけ言い残し、立ち去っていく。あの大きな背中を、かつての篤なら心強く感じたに違いない。だが今は、ただ遠ざかる存在としか思えなかった。
仕事の喪失
そしてついに、倉庫閉鎖の正式通告が来た。来月からは事実上、篤の働き口はなくなる。
夜勤明けの作業場で、上司が申し訳なさそうに書類を差し出す。そこには「解雇」という文字がはっきり印字されていた。会社都合の退職なので手当が多少出るらしいが、篤にとってはそれすらも無関心に等しい。
「浦野……今までありがとうな。悪いが、うちももう続かないんだ。」
「まぁ、仕方ないっすよ。」
同僚たちは少しでも良い再就職先を見つけようと情報を交換し合っているが、篤はその輪に加わろうとしない。そんな彼の様子を、誰もがそっと避けるように目を逸らす。
こうして長年続いた夜勤の生活にも終わりが見えてきた。しかし篤の心はやはり鈍く静かで、焦燥や恐怖といった感覚から遠ざかったままだ。家に帰り、また安酒を買って飲めば、すぐに何も考えなくて済む。
スナックの終わり
閉店の危機が迫るスナック「杏」も、ついに本当に“幕を下ろす”日を迎えた。加藤ママは大家との交渉が決裂し、退去することを選んだらしい。別の街で店を再開する余力もなく、しばらくは実家に帰るという。
最後の晩、篤は「杏」に行くかどうか迷ったが、結局重い足を引きずるように店のドアを開けた。すでに常連客はほとんど帰っており、加藤ママが一人でグラスを拭いている。
「……ああ、浦野さん。」
いつもなら「いらっしゃい」と声をかけるママも、その一言しか出てこない。店内には片付けられたテーブルや椅子が所々に残るだけで、寂しさがむき出しの空間になっていた。
カウンターに座った篤は、最後の一杯を注文する。
「これから、どうするんですか?」
「さあね。実家があるにはあるけど、そこも古いからね。仕事も見つかるかわからないし……」
ママの口調は努めて明るく振る舞おうとするものの、覇気はない。篤自身にも特に何かを助言できるわけではなかった。彼は手持ちの金で焼酎を払うと、ほんの少しだけためらいを見せ、ママに頭を下げる。
「今まで世話になりました。」
「……ううん、こちらこそ。」
短いやり取りのあと、篤は店を出た。と同時に、看板のネオンがふっと落とされる。まるで街の灯火そのものが消えていくようだった。
取り残された街
その数日後、小嶋は予定通り都会へ戻っていった。駅の改札での見送りもなく、篤は「じゃあな」と軽くメールを送っただけで、それに対して短い返信があっただけだ。
篤の周囲から人が一人、また一人と消えていく。取り壊しの始まった倉庫街、シャッター通りと化した商店街、そして空っぽになったスナック「杏」。
彼が唯一拠り所としていたアルバイト先もなくなり、いつの間にか生活保護の申請をして日々をつないでいる。何のために生きているのか。そんな問いすら浮かばなくなって久しい。
路上詩人、最後の言葉
ある夕暮れ、篤は借りている安アパートの家賃を何とか払い込もうと、役所からの支給金を握りしめて外に出た。通りは相変わらず人影もまばらで、かつて賑わいを見せていたパチンコ店すらも閉店していた。
ふと視界の端に、あの白髪混じりの路上詩人の姿を捉える。男は空き地に立ち尽くし、もはや詩を書いている様子もない。ただ荒れ地のようになった舗装の上で、虚空を見つめている。
篤が何気なくその傍を通り過ぎようとすると、男が小さく声をかけてきた。
「……酔い続けるのは楽か? 目覚めなければ傷も見えないだろうが、何も掴めないまま朽ちていく。」
篤は立ち止まらず、そのまま歩き去る。男の声が風に消えるように遠ざかっていく。振り向きもせず、彼の胸には薄っぺらい苛立ちだけが残った。
どこかでカラスが一声鳴いた。それに応える人もいないまま、灰色の夕闇が街を覆っていく。
エンディング ──醒めぬ夢の行き着く先──
篤が古びたアパートの扉を開けると、部屋の中は相変わらず散らかったままだ。先日、どこからか拾ってきた小さなテレビがつけっぱなしになっていて、芸能ニュースの賑やかな声がやけに空虚に響く。
鞄を放り出し、買い置きしていた安酒の缶を取り出してプルタブを開ける。炭酸の弾ける音すら虚しく、口に含むとすぐに胃へ落ちていく。
部屋の窓から見える景色は、暗がりの商店街がただ静まり返っているだけだ。どこかで音楽が聞こえることもなく、人気のない道をわずかに吹き抜ける風がカーテンを揺らす。
思えば、何度も「変われるきっかけ」はあったのかもしれない。幼馴染の誘い、閉店前のスナックでの会話、路上詩人の奇妙な言葉。だがそのすべてを篤は無視し、先延ばしにし、結局は行動しなかった。
テレビのチャンネルをザッピングしても、どこもかしこも同じような番組ばかり。篤は空いた缶を床に転がし、新しい缶を開ける。目を閉じれば、どこか遠くで犬が吠える声がするような気がしたが、すぐにかき消える。
そのまま彼はマットレスへ倒れ込んだ。薄れゆく意識の中、頭の奥で誰かが囁いている気がする──「本当にこれでいいのか」。しかし、それもまたアルコールの海に沈んでいく。
目覚めたときに何があるのか、あるいは何もないのか。篤にはどうでもいいことだった。ただ眠りにつき、また朝をやり過ごし、いつまでも醒めぬ夢のまま時を潰すだけ。
──酔生夢死。夢の中を漂うように生き、何も掴まず何も変えないまま、やがて死ぬ日がやってくるのだろう。
彼がそれに抗う日は、ついに訪れることはなかった。