死、デッド、デス、
極楽はあるのか、死後の世界はあるのか、そもそも死ぬとどうなるのかということを、昔からなんとなく考えていて、未だにふと考えるときがありまして。
たとえば私がまだ卵子と精子だったころ。
私に意識や意志は存在せず時間も存在せず、
生まれるか生まれないかというゆらぎがただそこに在っただけです。
そしてすなわち死とはそのような形態に戻っていく様を言うのだろうとおもっております。
ただしこの場合は生まれる前と違い、ゆらぎが持っているような「確率性」は存在しません。
死は純粋な無であり、もしくは数学的に言うところのゼロ除算に近い状態なのではないのかと思うのです。
もしかすると生存している側の我々がそれぞれに保有している、
死した当人との思い出なんかを「ゆらぎ」として表現できるかもしれませんが、
やはりそれもゼロ除算的なものではないのかなと思うのです。
ですから私は天国やあるいは死後の世界などは今のところは信じておりません。
お葬式やお墓参りはあくまでもわれわれ死んでいない側のしおりのようなものであり、
人生というあまり良くわからない物語にしおりを挟み込んで、
一度ぱたりと本を閉じる時間。
すなわち「区切り」の時間をわれわれに与える行事のようなものなのではないかなと考えています。
さて、人間の面白い所は死んだ細胞に嫌悪をいだく所です。
好きな人の髪の毛なんかを撫でると実に心が暖かくなるものですが、
大量に抜け落ちた長い髪の毛の束を撫でる事は通常、嫌悪感を伴います。
同じ髪の毛なのにも関わらずです。
これはその細胞が死んでいるか、あるいは生きているかの違いなのではないでしょうか。
抜け落ちた髪の毛は死んだものでありますから我々は嫌忌してしまうのです。
これは人間が持って生まれた非常によくできたシステムであると考えています。
死とはすなわち髪の毛よりももっともっと大きな、細胞全体の死であります。
ですから当然死体にも嫌悪感を抱きます。いえ、抱かないといけないのです。
そうしないと生きている側の人間が、
卒した人間の停止した時間と同期したまま前に進む事が出来なくなるからです。
嫌悪感とはいわば「あきらめるための嫌悪感」であると言えます。
よく出来たメカニズムです。