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情事のさなか風俗嬢は何を思うか
「ここ一番という時に、また来ます」
瞳がぐっと澄んだ彼は、そう残して帰って行った。その背を見送り余韻を背に思う。ここ一番。その時、果たして私は会えるのだろうか。
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受け入れることと祈ることは果てしなく似ている。というより、後者は前者の先にある。
私の中で祈るというのは、千羽鶴宜しく外に羽根を広げるのではなく、むしろそっと畳んで包み織り上げる様なイメージ。
いわゆる「あげまん」という言葉。あれは、音の低俗さとは裏腹に、祈りの果てにあると思っている。"初めまして"から"行ってらっしゃい"の初めから終わりまで、相手の輪郭を常に捉えんとしている。形が分かって初めてその通りに包み込めるから。そして矢張りそれを一番に感じ抜けるのは、どう足掻いても綺麗事を差し置いて、全身全霊此の身の内側を以て抱き締めている時なのだ。
相対する輪郭をなぞるには。あらゆる感度をどれだけ上げられるか、身も心も開いて無防備に晒せるかだと思っている。だから私は嘘を纏いたくない。わからなくなってしまうから。自分と相手の触れる場所が。琴線の在り処から、肉の境界に流れる人肌以上の温感すら。
それは、ふと零されたそういう言葉の裏に在るものだったり、横顔に翳った小さな迷いだったり、そも此処へと足を運ぶその動機の奥底だったり。静謐とは掛け離れヴェールの奥ゆかしさすら引き剥いだ、絡めた掌の大きさもちぐはぐな祈りを紡ぐ。
それを"愛"だと切って捨てるには、何処か烏滸がましさを感じてしまうけれど。
そんなことを、"果て"に思っている。
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