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私が祖母とさようならするまで【総集編】
1. 2023年2月
▪︎ 新幹線で泣きながら文字を打つ。
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2023年2月、コロナ禍でなかなか行けなかった母の故郷に4年ぶり帰った時のこと。
私はこの文を、帰りの新幹線で泣きながら打った。
2024年1月、また関東に雪予報が出て、そのことを思い出した。
そして2024年2月、また新しい局面となる。
思い出すと少し辛い気持ちになるけど、忘れたくないし、残しておきたい。
▪︎ 新幹線で、長岡へ。
東京にも雪予報が出た日、仕事がひと段落した私は、母の生まれた新潟にある施設で暮らす祖母に会いに行くことにした。
本当に思いつきで決めてしまったので後になってから気付いた。今、冬だ。しかも雪だ。ばかだ。
雪の日に履ける靴もろくにないまま、見切り発車してしまった。都民は雪への危機感と準備が不足しているため不安ではあったが、新潟行きを辞める理由にはならない。優しい友達が雪用の靴を貸してくれた。ありがとう。
宿泊がついたほうが安いプランだったので、夜に新幹線で移動して、長岡で一泊した。夜遅くついたこともあって人なんて歩いていないし、本当にコンビニ以外はしまっていた。
新幹線の止まる駅と思っていたので油断していた。
格安プランで決めたホテルは思っていたよりも年季が入っていて、レトロな雰囲気だった。
…これが、精一杯の表現です。
禁煙にしたはずが明らかにタバコを吸った痕跡があり、空気清浄機にはコンタクトを外した脆弱な私の視力でも確認できるくらいこんもりほこりがつもっていた。
気持ちの収まりきらない私は後に、生まれて初めて実名でレビューを書くことになる。
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翌日、スーツ姿のサラリーマンばかりの中ちんまり朝ごはんを食べ(やっぱり、というか当たり前に白米が異様に美味しかった)信越線で柏崎へ向かった。
▪︎ 祖母の入る施設へ。雪の中窓に向かって手を振った。
小学生の時の夏休みに行った時は、ザ・ローカル線な車内で、向かい合わせに座るボックス席や、やたらと横に揺れる車体が楽しかった。
今はJRの綺麗な車内に電光掲示板がつき、ボックス席の間隔も気持ち広くなり、都会の電車とあまり変わらない。人だってものだって時が経てば変化していく。
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柏崎に着くと叔父(母の弟)が車で迎えにきてくれていて、叔父夫婦とお昼を食べ、祖母が暮らす施設に向かった。うっすらと、ずっと雪が降っている。
施設にはコロナ陽性の利用者の方がいること、私が県外から来ている事もあって、直接の面会は直前にできなくなってしまった。
私は祖母の暮らす施設の外観を見るだけのつもりでいたが、叔父が「駐車場側の窓のある部屋だから、もしかしたら電話したら顔を出してくれるかも」と言ってくれた。
祖母に電話を繋いでもらって、2階の窓に向かって手を振った。小さくしか見えなかったけど、祖母はしっかり振り返していた。電話越しに
「よっちゃんだよ〜!東京から来ちゃったよ〜!」
というと
「え…?なっちゃん(私の双子の妹)じゃなくて…?」
と、言っていた。
…すみません、今回はそっちじゃないです。似たようなもんなのでお許しください。
多分これは、仮に妹が行ったとしても、その時いなかった方ではないのか?と聞かれるやつなので、気にしない。なぜなら祖母は20年前から5人の孫(上から下までは最大12歳離れていて、みんな女)の名前をものすごくアバウトに呼ぶ。なっちゃん、じゃなくてよっちゃんか。は、割とあるあるだった。
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全く会えないと思っていたので遠目からでも顔が見られて良かったと安堵したが、同時にこの距離よりは近付けないことに寂しくなった。
ただただ手を握ったり、顔を見ながら近くで話をしたりしたいだけなのに。
▪︎ 老いは止められない。都合良く見ないふりをしていた。
東京に住んで、夏休みにだけ遊びに帰ってくる外孫のひとりにすぎない私は、今日ここに至るまでまだ都合よく見ないふりをしていたことがあった。
自分が中学高校を卒業し、大学に入り、社会人になっていくのだから、時間は経っているし、確実にみんな歳をとっているんだ。
物理的に距離が離れているからなのか、毎年一回や二回しか会わないからなのか、身近な人たちが老いていくことをどこか他人事にしていた。
それから、叔父は祖母が施設に入るまでの経緯や、認知症の予兆が出てきた頃の話をしてくれた。
一緒に服を買いに行って自分で選んだ服のはずなのに、家に帰ってくると「私はこんなの選んでいない」と言っていたこと。そこから生活する中で、出来ないことが増えていったという。家にあるものがわからずに、毎週同じものを買ってしまう。洗い物や洗濯ができなくなる。台所に立てなくなる。生きていく上で必要なことが、ひとつまたひとつとできなくなる。それでも叔父には「やってるよ」「わかっているよ」と言っていたらしい。
当たり前にできていたことができなくなることを、自分自身が認めることの辛さが、私には想像もつかなかった。
祖母は小さな商店をやっていて、ずっと商売人だった。誰にでも気をつかう、優しい気配りのできる人だった。私の記憶には売り上げの小銭を丁寧に棒金にしている姿や、店番をする姿がとても鮮明だった。
そんな祖母が、自分ひとりでは出来ないことが増えて、だんだんと人の手を借りなければ生活できないという現実に気付いた時の心境を想像することは、とても今の私には難しかった。
会いに行けるうちに会いに行かないとな。
月並みにそう思ったが、その後、さらに強くそう思うことになる。
2. 2023年5月
▪︎ 庭の綺麗な旅館で、初めての祖母と一泊
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母から、休みが取れないかと連絡が来た。
祖母を旅行に連れて行ってあげたいそうだ。
祖母はその後も施設で暮らしているのだが、認知症の発症、加齢による足腰の状態など、ここ最近の祖母の様子を考えると、なるべく早い方がよさそうだった。
新潟県内の祖母の生まれ故郷にある施設に、昔ご近所さんだった仲のいいお友達が暮らしているという。
母は祖母をそこに連れて行って、お友達に会わせてあげたいと思っていた。
そして、その旅行に横須賀に住む祖母の弟夫婦(私にとって大叔父とその奥さん)も同行してくれるという。4人中3人が80歳オーバーの旅。
旅行の日程は1日目にそのお友達に会いに行き、少し移動して旅館に一泊。次の日に祖母の施設に戻るというもの。仕事の都合ではじめから同行はできないが、私は1日目の夜、旅館で合流することにした。
思えば夏休みに遊びに行くばかりで、祖母とまともに出かけたことはなかった。ましてや泊まりは今回が初めてだった。社会人になって何年も経つのに、私は祖母をどこかに連れて行ってあげたことがなかった。
私が旅館についたのは夜で、部屋に入ると祖母はすでに寝ていた。お友達と会えてたくさん話して、疲れてしまったようだった。
私が部屋に入る時扉を開ける音が大きかったのか、起きてしまい迷惑そうにこちらを見ていた。ごめんね。
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▪︎ 祖母の弟夫婦とはじめまして。
祖母は早々に寝てしまったが、私はまだ大叔父夫婦に会えていないので、挨拶に行き、今日会ったお友達との話を聞いた。
どうやらそのお友達の息子さんが施設までの送迎をしてくれ、祖母をおぶって駅の階段を登ってくれたらしい。バリアフリーではない駅がある驚き。
祖母はお友達に会えて凄く楽しそうだったようだ。
祖母の弟にあたる大叔父は、普段は横須賀に住む寿司職人だった。コロナ禍を経て息子さんにお店を譲ったという。
大叔父は目元が祖母によく似ていた。私は性格も顔の造形も母方の血が濃い。とても初めて会う気がしなかった。耳が悪く、補聴器があまり自分に合わなかったこともあり、至近距離で話してコミュニケーションをとっていた。いつもにこにこしていて、穏やかな人だった。奥さんはとってもチャーミングで、とっても素敵な夫婦だった。
大叔父の奥さんと話をしていて、なぜ結婚に至ったか、という話題になった。
大叔父は別の方とのお見合いが決まっていた。
が、相手は気が乗らず「都合がつかなくなったと言うから、代わりに行ってくれないか」と打診され、代わりに行ったのが今の奥さんだったという。
え、友達のお見合いの替え玉(?)で結婚したの。
凄い。
反射で言ってしまった私の失礼な反応にも、奥さんは笑っていた。奥さんは、私って本当に運が良くて。お父さんと結婚できて良かった。と笑顔で話した。
叔父さんは耳が聞こえづらいから、字幕でテレビを見ていて気付いてないけど、それがまた、なんか良かった。そしてその大叔父と私は血が繋がっていると思うと、嬉しかった。
次の日の朝、ご飯を食べ、お茶を飲みながら母と祖母と大叔父夫婦と話をした。私は祖母が大叔父に「姉ちゃん」と呼ばれているのを見て、私にとってのおばあちゃんは、母で、姉で、義姉で、お友達なんだ。と思った。
お昼過ぎ、私たちは旅館の前で写真を撮り、大叔父夫婦とは別々のタクシーに乗り別れた。
私と母は、祖母を普段暮らす施設に送るため特急に乗った。祖母は席に着くとすぐ寝てしまった。
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▪︎ その時、笑顔でいられればいい。たとえ忘れていくとしても。
祖母が認知症になり、自分が誰かわからなくなることはなかったが、短期的な記憶力がほとんどなくなり、直前にしていたことや、一度言ったことを覚えることができなくなった。
母は、祖母が同じことを何度も聞いてきたり、言ったことを忘れてしまうたびに、悲しさと共にやはりストレスを感じていた。
つい、語気が強くなり責めるようになってしまった時、さっきはごめんね。言いすぎたね。というと、祖母は「いいのよ、親子なんだから」と言っていたという。そういう祖母もきっと、さっき何を言われたのかは覚えていない。でもその時の文脈から考え、いいのよ。と言っていたんだろう。
祖母は絶対、人を悪く言わなかった。変わっていってしまうことがあると同時に、変わらないところも確かにあると思えたことは、少しだけ深刻さを和らげてくれた。
旅行に行ったこと、仲良しのご近所さんに会えたこと、実の弟夫婦と旅行に行けたこと、そしてこの先に起こる小さなことから大きなことまで。もしかすると、私や、家族や、お友達のことも忘れて行くのかもしれない。
私は今回旅行の後半に同行することを決めてから、その事実を目の当たりにするのが怖かった。
そしてやはり、帰りに祖母の家の近くでご飯を食べていて、昨日お友達に会えてよかったね。と話していると、
「昨日会ったの?◯◯さんに?」
と聞き返されてしまった。
それにも母は
「いいの、その時楽しそうにしていれば」
と返していた。
その時のことを、祖母は思い出せないかもしれない。ただその瞬間には楽しそうに話している姿が確かにあったのだから、それを私たちがしっかり覚えていればいい。この先もそんなことが増えたら、もっといい。
私は、その時はうまく受け入れられなかった。
だって覚えてる方がいいじゃん。忘れることって悲しいことじゃん。まだまだ私には、受け入れるだけの強さはなかった。
でも今は、助けを借りながらゆっくりではあっても、自分で歩くことができる。ご飯も自分で食べられる。
また来年も来れたらいいね、なんて話していた。
しかしこの約半年後、祖母は施設で転倒し、大腿骨を骨折したことで、車椅子生活になってしまう。
この旅行は、私が祖母とした最初で最後の旅行になった。
3. 2024年2月
▪︎ 顔を見るその時までわかっていなかった。時間がないということ。
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旅行が終わってからは約1年間の間、何度か叔父から祖母の様子について連絡をもらっていた。
8月に大腿骨を骨折してしまったことで手術をし、無事成功したが車椅子生活になってしまい、退院してからは施設でリハビリはしているようだった。
9月には母が祖母の暮らす施設を訪れ、思ったより元気だったと教えてくれた。そんなこともあり、一時心配はしたが、少し安心もしていた。
しかし、10月にまた施設の室内で転倒し、今度は右上腕を骨折してしまい、また手術をすることになる。
度重なる入院や手術の連絡を受けながらも、私は会いに行くことができずにいた。
2024年1月
祖母が再び入院したと叔父から母に連絡があった。
母からの「命の危険がある」という連絡は、その文章だけ浮き上がって見えた。
その日は休みで、家の近くでお昼をとっている最中だったが、そのまま実家に行って、母と共に叔父からの連絡を待った。入院の書類や手続きでバタバタしているようだった。
しばらくするとメッセージが来た。今は面会制限が厳しく、これから移動したところで会えないだろうとのことで、私は今日は移動はせず、その後も連絡を待った。
その後すぐ手術の日程が決まり、母はひと足先に面会に行くことになった。
それから二度、日帰りで祖母に会いに病院に面会に行ったが、回を重ねるごとに明らかに話せる言葉は減っていった。
しかし、認知症を発症してから今までで、一番しっかりと会話ができる印象だった。私に対して「わざわざ東京から来てくれたの、お見送りできなくてごめんね」と言っていた。
なんとなく嫌な予感がした。1年前に旅行に行った時は、一往復の会話がやっとで、同じことを聞き返されていたのに、今は普通に持続的な会話ができる。もしかしたら、体に使うエネルギーを使い切ろうとしているのかもしれない。その時まで、残された時間は、とても少ないと気付かなかった。
▪︎ おばあちゃんと家に帰る。
「私は、お母さんの最期を看取るまでこちらにいようと思います。いつ付けになるかわからないけど、退職します」
母からの連絡があったのは2月1日の夜だった。
母は今勤めている職場を退職し、しばらく祖母といると決めた。と、言うことは病院と今は誰も住んでいない祖母の家を往復すると言うことだ。
その1週間後、「あなた、介護休暇とれない?」と、母に聞かれるまで、私は休みのたびに帰るという選択肢しかないと思っていた。
母は、祖母を最後は家に帰らせてあげたいと思い、叔父や、病院やケアマネジャーと話をしていた。祖母は施設にいる時も「そろそろ帰りたいから迎えにきて」とずっと言っていた。面会制限もない分、家に帰ればいろんな人に会いに来てもらえるし、病院からの電話に怯えなくてもいい。なによりきっと、祖母が家に帰りたいと思っている。
叔父夫婦が隣に住んでいるにしろ、母はひとりでは心細いだろう。そうじゃんそういう制度があるなら使おう。私は週休と介護休暇を合わせて、13日分休みを取った。私が休みを取って3日後に祖母は家に帰ってきた。無事に帰ってきた日に、
「うちに帰ってきたよ」
と話しかけると、小さく家のある住所の町名を言っていた。家に帰ってきたことは、わかっていたようだった。
病院からの連絡に怯えることがなくなったにしろ、気が休まるというわけではなかった。
寝息が静か過ぎて不安な日は眠れず、テレビを流し見しながら折り紙をし、たびたび祖母の顔をのぞいた。あまりしっかり休めず、私も母もしっかりは眠れない日が多かった。
祖母が家に戻って数日経ったある日の昼、インターホンが鳴った。
そこには、一年前に旅行に同行した祖母の弟、大叔父の姿があった。横須賀からひとりで、実の姉に会いに来たのだ。
大叔父は時間の許す限り祖母の近くで声をかけてくれ、じいさんが出すから!と言って夕飯を買うためのお小遣いをくれた。私も一年ぶりの再会が嬉しく、母と一緒にたくさん話した。大叔父は一日泊っていった。
翌朝、帰りの新幹線の時間が近づくと、離れがたくなった大叔父は泣き崩れてしまった。
私と母は毎日少しずつ変わっていく祖母を見ていると、少しずつ気持ちを準備をしていく時間があった。このままゆっくりと祖母は弱っていくとわかっていた。大叔父は違う。最後に会ったのは一緒に旅行をした時。今、唯一残る兄弟で、大事な姉なんだ。
私は駅のホームまで大叔父を送った。
祖母が亡くなる5日前だった。
数日後、私も一日だけ仕事をするために東京へ戻った。
▪︎ 最期の時まで、気遣いの人だった。
2月26日
「セキさん亡くなりました。」
仕事のために一日だけ東京に戻り、いつもより少し早く出勤した私は、昼頃に母から祖母が旅立った連絡を受けた。母と叔父夫婦に両側から見守られながらだったという。
私は、良かったと思った。
ほんの2週間足らずだが、祖母の近くで生活しながらどこかで、孫の中で私だけが祖母が弱っていく姿をまじまじと見ていることに複雑な思いを持っていた。
5人いる孫のうち、私だけが亡くなる瞬間を看取ることになっていれば、今までの生活も含めて「私だけが最後まで一緒にいた」ことにならないかと思っていた。
時間が取れるから私が進んで引き受けたことなのに、私はどこか、どうして私だけ。と思っていたのかもしれない。そのくらい、この期間は辛かった。
しかし、他の4人も時間を作り、病院にも、家に戻ってきてからも何度も会いに来てくれた。施した事やかけた時間で愛情の度合いを計ることは愚かなことだと思った。そんなことを考えながら看取ることを、祖母は望んでいないと思う。
きっと、4人も私と同じ環境で仕事や日常を送っていたら、ここにきて祖母の介護をしたいと思っただろう。
祖母が亡くなった直後、今まで口呼吸で寝ていたこともあり、口が開いたままだったというが、母が看護師と「閉じてあげたいけどね」と話して次に見た時には閉じていたという。最後まで聴覚は残るとよく聞くけど、こんなことあるのかと驚いた。
祖母は「閉じといた方が良さそう」と思ったのかも知れなかった。看護師さんに聞くと、だんだん開くことはあっても急に閉じることはないらしい。
そんなところまで気を遣わなくていいのに。
▪︎ どんなに尽くしても「もっとできた」と思うのは、その人を心から愛していたから。
私はとんぼ返りで祖母のもとへ向かった。
着いた時には、祖母のために借りた介護用のベッドは既に搬出されていて、香典返しの紙袋が並んでいた。
祖父と曽祖母の仏壇のある仏間に、祖母は寝かされていた。本当に寝ているみたいだった。
点滴で浮腫んだ足はそのままなのに、肌は全て冷たく、固かった。
私は自分の持ってきたメイク用品で祖母に最後の化粧をした。化粧をすると余計にただ寝ているみたいだった。しばらくは祖母の顔を眺めていたが、体の上に置かれた大量のドライアイスのおかげか、仏間はいつも以上に寒く、長くはいられない。
それから親戚やご近所の方が弔問に来てくれたり、葬儀屋さんが祭壇を作りに来てくれたりと、人の出入りが多かった。そしてそのまま通夜、葬儀場での祖母との最後の一泊、葬儀の日まで、目まぐるしく過ぎていってしまった。いろんなことがあったと思うが、あまり細かくは覚えていない。
私は初めて火葬場で遺骨を拾った。
大腿骨を手術した時の、チタンの人工骨が焼けずに残っていて、間違いなく祖母だということがわかった。骨になった祖母を見たらもっとショックを受けると思ったが、そんなことはなかった。どう表現したらいいかわからないが、体って本当に、魂の入れ物なだけなんだ。と思った。祖母は、どこかで自由にしていると思う。先に旅立った祖父と出会えてるだろうか。
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後ろは静かにお絵描き中の偉い姉。
私は何度も何度も、もっと何かできたと思った。
元気なうちにもっと会いに行ってあげていれば。一緒にいた時間も、もっとできたことがあったかもしれない。母は、そう思うのは、その人を心から愛していたからだと言った。尽くしても尽くしても、思い当たる限りのことをしてあげたいと思うほど、大事な人だったという事だと。
またいつか、大事な誰かを見送ることになるのかもしれない。また同じような思いをすることに、自分が耐えられる気がしない。できれば、もうこんな気持ちにはなりたくない。きっとそうはいかないんだろうが、祖母はこの期間、人が人生を閉じていく過程を、私たちにしっかりと見せてくれた。私たちに、受け入れる時間をたっぷりと作って。
まだまだ祖母を思って涙ぐむ日がある。夢に出てきた祖母に何も言えず、起きてしばらくは何もできなかったりもする。
私はそれを残しておきたかった。
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