教養ってなんだろう?
婚約者が彼の親友のnoteにアンサーソングならぬアンサーノートをしていたので、私も「教養」に関する記事を書いてみようと思います。
ところで皆さん、「教養」ってなんだと思いますか。私は生まれてから19年、この概念についてはかなり考えていますがなかなか決まった定義ができていません。高校に進学したあと、「賢い」と感じる人にはたくさん出会ってきました。ですがそのなかで「教養がある」というように感じた人はその内の数名です。「教養がある」と感じた人はもれなく「賢い」とも感じたので、
賢い⇒教養がある は偽
教養がある⇒賢い は真
つまるところ教養があることは賢いことの十分条件だと私は無意識に考えているのだと思います。それから私は、自分は教養がない人間だと思っています。義務教育を修了→高等学校を卒業→大学へ進学 と諸々の学習をこなしてきましたが、その中で身についたと思うことはなく、人を感心させることができる話1つ満足にできません。
それでは「教養」の定義は?
そういった私のばらばらな感覚や考えを集めてまとめ、暫定的な自分なりの「教養」の定義をつくってみました。
教養があるということは、「自分の興味を持った物事を掘り下げて探究し、そこから得た知識がある」ということなのではないかと今の私は考えています。
教養は顕著でも、密かでもある
この記事を書くにあたって婚約者と電話していたときに「自分は教養がない、薄っぺらい」というふうに自分を形容したところ、「あなたが僕の聖書の知識を教養と思ってくれたように、僕はあなたの中国語(台湾華語)の知識を教養だと思っている」と返されました。私は3歳~7歳半を台湾で過ごしていて地元の公立小に通っていたこともあり今でも台湾華語の簡単な読み書き、会話やリスニングができます。このことは彼も記事に書いていましたが、私にとっては台湾華語の知識は地元の学校に通っていたのだから知っていて当たり前、言ってしまえば常識であったのですが、他者の立場からすればそれもある種の教養なのです。
最近「教養人の生活」「教養人の思考」など教養があるとされる人を取り巻くものについて扱った本がたくさん流通しています。私もそういった本は興味を持って読みますし、実際内容もとても面白いです。そういう本を否定したいわけではありません。ですがこのような本が流通していることの背景には、現代で教養が絶対視されている状況があると思います。「教養をつけなければいけない」という観念が需要となっているわけです。先ほどのような本で教養があるとされて取り上げられる人達は、名門大学を出ていたり、多くの人から崇拝されていたり、高収入だったりします。その取り上げ方をみると、あたかもそういった分かりやすい地位や名声を手に入れていなければ教養があるとは言えない、という錯覚を生みそうだと私は感じます。ですが先ほどの話でもあったように、教養というものは人によって捉え方が揺らぐものです。確かに立派な地位や名声を手にした人たちは賢く、教養があるように思えます。ですがニュースやSNSでも取り上げられないような、ひっそりと暮らしている人たちの中にも、日常生活の知恵や生きる術など、(それは本人たちからしたら単なる「常識」かもしれないけれど)本当に大切な知識を身につけて実践している「教養人」は間違いなく存在します。
分かりやすい、目に見えるものばかりが教養の代名詞になってほしくない、そう思われてほしくないと私は考えています。
以上が今の私の教養に関する考えです。とりあえず私は「自分の興味のあることの探究」が致命的に足りていないので、本を読んで見識を深めていこうと思っています。
ヘッダーは中国語の勉強の痕跡。婚約者に言われて確かに私の中国語学習の土台は人にはないアドバンテージだと認識したので、大事にして中国語の探究をしていきたいと思います。