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あの日の生姜レモネード (4/4)

「あの時、木根さんに出会わなかったら、今の私も、そしてこの人との出会いもありませんでした」
 生姜レモネードを手にしたお客さんを前に、私はそっと横の夫を振り返る。プラスチックのカップに新しい生姜レモネードを注いでいた夫が、照れたように顔を上げた。
「まあ、生姜レモネードに感謝ですよ。これのおかげで、彼女に出会えたんで」
 恥ずかしそうに笑う夫の薬指で、真新しい結婚指輪が輝いている。

「えー、素敵! すごいロマンチックですね」
 キャーと、にわかに湧く黄色い声援を受け、夫は本当に恥ずかしそうに手を振った。客商売なのに、あんまりの照れようで俯いてしまっている。こういう、およそ客商売には一見不向きかもしれない夫の純情さが、私は心から好きだった。

「その、木根さんって方は、今どうされてるんですか?」
 目をキラキラと輝かせた、お客の一人にそう聞かれた。
「三年前、『もう、香屋子ちゃん一人で大丈夫そうね』ってこのキッチンカーを私に託してくれた後は、ゆっくりご隠居生活を送ってらっしゃるわ」
 そのお客さんに、私は笑顔で答える。そうしながら、夫に注いでもらったばかりの新しい生姜レモネードを、並んでいた別のお客さんに手渡した。

 年を重ね、さすがに頃間だと思った木根さんは、ある時キッチンカーを私に譲ることになった。その木根さんに言われ、今でも心に残っている言葉がある。
「いい、香屋子ちゃん。どんな場所で、どんなことをしていても、必ず人は、誰かを救えるの。どうか、香屋子ちゃんの作った生姜ジンジャーで、たくさんの人を救ってあげてね」

 優しく慈しみに溢れた木根さんの作る生姜ジンジャーは、年を取るごとに、その甘さや味の深みが増していくようだった。
 いつか、私も、この人が作るような生姜ジンジャーを作れるようになりたい。
 そして、願わくば……。

 あの時に抱いた思い。それを今も胸に、私は毎日、一杯一杯生姜レモネードを作り、お客さんに振舞っている。
 木根さんの生姜レモネードに救われた。だから今度は、私が作った生姜レモネードで、別の誰かを救いたい。シンプルだけど、あったかい生姜レモネードに負けないくらいの熱い思いが、私の胸にはある。

 ふと、道の先に、路上で膝を抱えて座り込み、呆然と俯いている女性が目に入った。「ここ、お願い」夫にそう言うと、彼の返事も待たず、私はキッチンカーから飛び出て彼女のそばに歩み寄った。
「大丈夫、ですか?」
 ひざをつき、そっと尋ねる。
ほんのりと湯気が立つ生姜レモネードを差し出すと、彼女のうつろだった視線に、ほんの一瞬だけ生気が戻り、私を見つめた。
「生姜レモネードです。どうか、飲んでみてください。ちょっとだけ、元気が出ると思いますので」
 女性の肩を抱き、優しく微笑む。

 今がつらく、先行きが暗くても、どうかこの生姜レモネード を飲んで、少しでも元気になってほしい。
 一口一口、少しずつ飲むその女性のそばに、私はそっと寄り添い続けた。 <了>

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