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あの日の生姜レモネード (1/4)

 一流商社を辞めてまで、なぜ、キッチンカーでドリンクの販売を始めたんですか?

 チューチューと買ったばかりの生姜レモネードを飲むお客さんから、まま聞かれることがある。その度に私は、心からの思いでこう答えている。
 私自身が、ずっと前にそれを飲んで、救われたからです、と。


 残業続きで、休みの日は終日ぐったり。
 憧れて入社した国内最大の総合商社で、女性総合職として働くのは想像以上に過酷だった。そんな、毎日身を粉にして働き、次第にボロボロになった私を救ったのは、一杯の生姜レモネードだった。

「お姉さん、大丈夫? これ、タダだから飲んで。楽になるから」
 意識朦朧として路上に倒れ込んでいた私に、どこからか優しい声が届く。目も開けらないくらいの困憊の中、ほんのりと甘く香る生姜の匂いが鼻腔を掠めた。

「ほら、飲んで」
 声の主に促されるまま、口に含んで飲み下す。腹にずっしりした熱いものを感じ、思わず目を見開いた。
「これ……」
「生姜レモネード。お姉さん、すごく辛そうだったから」
目の前に、にっこり微笑む女性の顔があった。
深い皺のひとつひとつに、たとえようもない程の慈しみが溢れていた。

「あの日、あの場所で見た、木根さんの笑顔。そして飲ませてくれた生姜レモネードが、私を救ってくれました。あの時のことがなければ、私は今、ここにいません」
 大げさでも、誇張でもなく、厳然たる事実として、私は思う。
 時に人は、思ってもみないところで、思ってもみないことで救われる。
 あの時の木根さんの笑顔はとても眩しく、今でも目に焼き付いて離れない。そして、腹に収めた途端に、身体中に栄養が運ばれるようその熱が広がった生姜レモネード。その二つが、私を救ってくれた。

 どこでどういう思考のプロセスを通ったのか、今となってはわからない。
 けれど、それから数日経って私は、上司に辞表を提出した。
 上司は、私が差し出した封筒にさっと目をやると、ただ一言「いつの予定?」と聞いただけだった。

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