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若さゆえの選択⑥ (詩乃) ~近くて遠い、その隔たり~

「ここじゃ、迷惑になるから」
 そう言って、詩乃は両親をシャアハウスから連れ出した。
 ここに居座られて、これ以上、玲奈さんをはじめ皆に嫌な思いをさせるのは絶対に嫌だった。
「早く立って!」と声を荒げ、詩乃は両親をソファから立ち上がらせた。

「ひとりで……大丈夫?」
 玄関を出る間際、玲奈さんに呼び止められた。心配そうな目が、詩乃を見つめる。
「玲奈さん。ご迷惑をおかけして、本当にすみませんっ。私にも何の連絡なしに、いきなり訪ねて来て」
 玲奈に謝りながら、詩乃はとにかく頭を下げた。
 きっと、当然尋ねてきた両親に応対している中、玲奈さんが不快な思いをしたんじゃないか。
 リビングに入った瞬間、険しそうに表情を曇らせていたさっきまでの玲奈さんの様子が、脳裏から離れなかった。
「……もし、何かあったら電話して。みんなで行くから」
 いいわね? と玲奈は強く念押しをして、じっと詩乃の顔を覗き込んだ。詩乃は、唇を引き結んでぐっと頷く。再び靴を履き、玄関を出た。

 両親を後ろに従え、詩乃は帰ってきたばかりの道を駅前へと戻った。
「詩乃、あんた荷物は? 家に帰るんだったら、着替えとかちょっと多めに持って帰った方がいいんじゃない?」
 そう言う母の声を無視して、詩乃はただ暗い夜道をまっすぐ前に歩く。
 怒りとくやしさで、はらわたが煮えくり返る思いだった。 

 突然連絡もなしに尋ねて来た両親の理不尽さ。そして、そんな両親のせいで一緒に住む仲間の人たちが迷惑をしたであろうこと――。考えると、猛烈に腹が立った。同時に、情けなくてたまらなくなる。
 どうして、お父さんもお母さんも、こんな理不尽なのか? 娘の身になって、考えられないのか?
 憤りの炎が、胸の中で音を立てて煮え滾っている。

「お腹空いてるでしょ」
 そう言って、駅前のデニーズに両親を入らせる。すぐ列車で実家に帰ると思っていた両親は、一瞬怪訝な表情を浮かべた。けれど、詩乃が先立って店の中へ入ってしまうと、渋々と後に続いた。

「ドリンクバーを3つ」
 席に案内されると、店員が口を開く前に詩乃はそう告げた。母親が何か言い掛けるのを、詩乃はキッと睨んで目で制する。
 すぐに席を立ち、ドリンクバーから熱いココアを3つ、テーブルに運んできた。

 詩乃が持ってきたココアに、父と母はあえて手をつけず、ただ怒ったように黙り込んだ。
 そんな両親を前に、詩乃はズズズッ、と熱いココアを啜る。
 口の中で広がったほのかな甘さは、やがて熱い塊となって喉を通り、身体の中まで沁みた。
 それは、詩乃がそれまで抱えていた憤りやくやしさを、わずかに和らげてくれたようだった。寒い屋外を抜け、暖かい店内で口にしたせいもあったかもしれない。熱いココアの一口は、これから両親と真っ向から向き合う詩乃の、大きなエネルギーチャージとなった。

「あんた、何考えてんのっ」
 口火を開いたのは母だった。小さく荒げた声が、わなわなと震えている。目が吊り上がり、睨むように詩乃を見ていた。
「せっかく迎えに来てあげたのに、勝手にこんなところに入って。お父さんもお母さんも、忙しいの。勝手なことしないで」
 言い切る母の口調にまったく迷いがないことに、詩乃はそっと、小さく息を吐き出した。
 母は専業主婦、そして今は金曜の夜だ。何をもって忙しいと、どうしてそう臆面もなく言い切れるのか。詩乃にはまったく分からなかった。

 諦めを通り越して、悲しくなる。
 母の隣でじっと押し黙り、言葉を発しない父に対しても、果たして自分の言葉が通じるのか。
 この二人には、自分の言葉が通じないかもしれない――。
 怒りのボルテージとともに上がっていた詩乃の肩から、力が抜ける。
胸の中で湧き上がっていた、両親の理不尽さに対する憤りが途端に萎んでいった。

 母と父、この二人と話したところで、自分の言葉や感情を理解してくれないかもしれない。
 理解する考えの土台が、そもそも自分とは違っているのではないか? だとしたら、今から私が何を言っても、この二人には何も通じないし、届かない。そして、おそらく同様に私も、父と母の考え方や言い分を理解できない。つまり、お互いが何を言っても、ただ意見が平行線になるだけの、ただの徒労に終わってしまう――。

 詩乃は、急に視界が暗くなるのを感じた。
 両親が何か言った声が、うすぼんやりした頭の上を通過する。

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