若さゆえの選択④ (玲奈) ~あの日、救われたこと~
玲奈は、詩乃より2年早く、そのシャアハウスに住み始めた。
憧れだった声優になるため、バイトを掛け持ちしながら声優の養成学校に通う。生活費を切り詰めるため、家賃が安いシャアハウスを選んだ。
オーディションを受けても、ことごとく落選。全く結果が出ない。詩乃が入居してきたのは、そんな苦心が続いていた時だった。
「『万華鏡職人になりたい』って言ったら、親に反対されて……。もし、このままお父さんやお母さんの言うことに全部従ってたら、きっと何もかも出来なくなってしまう。私の人生じゃなくなってしまう。それが嫌で、家から出ることにしました」
入居初日の夜、みんなで歓迎のごはんを食べた時に、詩乃はそう打ち明けた。
フッ、と鼻で笑うように、玲奈は息を吐き出す。虫唾が走った。
世の中、そんなに甘くない。『お父さんやお母さんの言うことに全部従ってたら』って、お前がここに住む家賃は、そもそも一体誰が出したんだ? 高校出たてのお前が、そんな金持ってんのか?
表情を消しながら、玲奈は心の中、一人で詩乃を毒づいた。
夢や理想で生きられる程、現実は甘くない――。
オーディションに落ち続けている苦い現状が、玲奈の心を暗く覆っていた。
詩乃がシャアハウスに住み始めて、半年が経った頃。
もう何十回目にもなるオーディションに落ちた玲奈は、心が折れそうな日々を送っていた。
くやしさ、悲しさ、憤り、嫉妬。
行き場のない思いを持て余し、怒りとも無力感ともつかない感情が、数秒ごとに心を振り回す。
まかり間違えば、どうにかなってしまいそう。
これまで、何度も何度もオーディションに落ちてきて、落選は慣れていたはずだ。
当たって砕けて、むしろ当たり前。たとえ今プロの人たちであっても、最初はみんな通った険しい苦難だと考えて、今までやってきた。でも、まるで手応えが得られず、光が見えない現実に、心はずっと蝕まれてきていた。
このまま、一縷の望みを捨てずオーディションを受け続けるか。それとも、夢を諦めるか。
後者を考えるとき、玲奈の目にはいつも涙が滲んだ。
あきらめたくない。あきらめられない。
立ち塞がってどうにもならない現実を前に、それでも心は頑なに希望を曲げなかった。
私は、どうしても声優になりたいんだ、と。
「あの、もしよかったら……」
詩乃から万華鏡を手渡されたとき、玲奈は共有スペースのリビングで、呆然と俯いていた。頭が真っ白で何も考えられなくなり、心が動きを止める。すぐ側まで近付いてきた詩乃に何度も名前を呼ばれて、玲奈はようやくふっと顔をあげた。
詩乃の手に握られていたのは、万華鏡だった。
淡い桜色をあしらった丸い筒に、爽やかな蒼い曲線が優美に描かれている。
「私のこと、玲奈さんはあまりよく思ってないかもしれません。でも、私は玲奈さんのことを尊敬しています。夢に向かって、絶対にくじけずあきらめず、懸命に戦うその姿。どうしもないくらい熱い想いを、すぐ近くで見ているので」
玲奈の目が、大きく見開かれる。思わず詩乃の方を見上げ、二人の視線がかち合った。
「これ。もしよかったら、覗いて見ていただけませんか? 私が、初めて一から全部ひとりで作り上げた万華鏡です」
拒まれるんじゃないか。そんな、微かに不安や恐れが滲んだ詩乃の声。
気付いたときには、玲奈の手は自然に伸びていた。
玲奈が受け取った万華鏡は、思ったよりも軽かった。詩乃が握っていた、熱と匂いが残り香のように染み付いている。ゆっくりと顔に近付けると、シャラッ、と中の砂が揺れた音が、優しく玲奈の耳に溶け込んだ。
万華鏡を覗いた先。雪の結晶にように形をなす、ほのかに赤く燃ゆる結晶体が目に飛び込んできた。
「……玲奈さんを、意識して作りました」
詩乃の声で、万華鏡を顔から離せなくなる。ツーンと、鼻の奥が痛んで視界が歪む。
「最初、そんなつもりはありませんでした。でも、初めて作る万華鏡をどんなもにしたいか考えた時。なぜか私の心を離さなかったのは、ただ幻想的できれいな光景ではなく、どうしても手放せないくらいの、ゆずれないくらいの強い思いを抱いている人のことでした」
詩乃の言葉に、玲奈の目から止めどなく涙が溢れる。玲奈自身、自分がそんなに熱い想いを持っているなんて分からなかった。子供のころから憧れた夢、なりたいと思った職業。自分ならこうやって演じると、気付いたときにはいつの間にか考えるようになっていたこと。声優になりたい、演じたい、そんな純粋に好きという思いが、オーディションに落ちることで自己への否定にすり替えられ、玲奈の心に重く蓋をしていた。
ああ、そうなんだ、私……。
こぼれる涙とともに、熱い想いが玲奈の心の底から湧き上がってくる。
私、やっぱり演じることが好きなんだ。だから、声優になりたいんだ。
声優になることを、あきらめたくない。
崩れた顔のまま、それでも玲奈は万華鏡を顔から離した。詩乃の方をじっと見つめる。玲奈の目に、もう詩乃への嫌悪感はなかった。ジュル、と鼻を啜りながら、わずかに口元をほころばせた。
「詩乃、ありがとう。私、あなたに救われた」
動きを止めた詩乃の身体が、次第に小刻みに震え始める。今度は、詩乃が両手で顔を覆い、熱い涙を滾らせた。
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