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あの日の生姜レモネード (3/4)

「私の特性のレシピなの」
 こっそり秘密を打ち明ける少女のように、彼女は悪戯な表情でウインクする。年齢を重ねた彼女が見せるそんな仕草は、この上なく素敵で、魅力的だった。

「あ、あの」
 そんな彼女の様子に、私は思い切って尋ねた。
「もし、可能なら、お手伝いをさせていただけませんか。あ、別にお金とかいりません。ただ、あなたのお手伝いをさせていただきたいんです」
 唐突な私の申し出に、彼女は面食らったように口を開けた。けれど、次の瞬間には陽気に「あははははは」と笑い声をあげた。

「あなた、本当に面白いわね」
 お腹を抱えて笑う彼女に、私もつい連られて笑ってしまう。
「何か、いきなり変なこと言って、すみません」
 苦笑しながら彼女を見ると、「ううん」と彼女は首を振った。ふと何かを思い出すように、一瞬宙に視線を彷徨わせた。

「いきなり言われて、正直とても驚いたわ。
 でも……。あなた、私に似てるかもしれない。何せ、私もずっと前、あなたと同じようにしてこの商売を始めたから」
 にっこり笑う彼女に、今度は私が驚かされる番だった。彼女が続ける。
「いいわよ。お手伝いしていただけるのなら、大歓迎よ」
 あたたかな彼女の両目が、正面から私をとらえる。そんな彼女を見て、嬉しくて私は笑ったはずだった。しかし、「そんな、泣くほどうれしかったの?」という彼女の声で、私は初めて、目から涙がこぼれ落ちていることに気づいた。

「えっ、あ、……ごめんなさい」
 泣いているのか喜んでいるのか、どっちも混ざった涙をそっと拭う。そんな私の様子を、彼女はじっと見つめて目を細めた。
「今まで、大変だったでしょうけど。これからは、もっと大変よ」
 覚悟はある? まるでそんな問いかけをするように、彼女の口元が悪戯っぽく笑う。

 彼女は木根さんと言って、私が想像したよりも少し年上、六十代半ばというのが後にわかった。木根さんも、もともとは私とまったく同じで、ふとしたことから勢いで、キッチンカーでのドリンク販売を引き継いだと教えてもらった。

「男に逃げられ、明日のお金もない。私は、そんなときにこれに出会ったの」
 手にした生姜レモネードに優しい視線を送りながら、木根さんは言った。
「呆然として半ば腑抜けになっていた私に、『これ、飲んでみない?』と声をかけてくれたのが、このキッチンカーの前の持ち主」

 懐かしく昔を振り返る木根さんに、私は言葉を差し挟むことなくじっと耳を傾ける。
「あの時に飲んだ生姜レモネードは、私にとって、生涯忘れられない味になったわ。あれを超える飲み物はないんじゃないかってくらい。そして、すぐに思ったの。私もこれを作れるようになりたい。私を救ってくれたこの人のもとで、働いてみたいって思いが、身体の底から湧き上がってきたの」

 上品な佇まいの木根さんが、その時ばかりはとてもエネルギッシュに感じられた。普段の落ち着いた優しい声音ではなく、若々しい、活力がその彼女の内側から放たれていた。

「たかが一杯の生姜レモネードだったけど、私の人生を変えるには十分だったわ」
 そう言って苦笑する木根さんに、私はふるふると首を振った。
「私だって、木根さんの生姜レモネードを一杯飲んだだけです。でも、本当に、心から救われました」
 木根さんに、思いが届いてほしいと言葉を紡ぐ。

 誰の、どんなことがきっかけになるかわからない。でも、誰かのした小さな出来事が、別の誰かの幸せや時には不幸につながる。この世の中は、常にどこかで何が繋がっているのだということを、その時の私は悟るように感じた。

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