8月15日終戦記念日
今年も、この時期になったなと感じている8月15日終戦記念日
今回で20年近くになります靖国参拝になり
その間、大村益次郎の銅像近くのテントでいつも講演されていた方々も亡くなった方も多く
生前、直接お会いしてお話を聞けて、メッセージも頂けた事は強烈な思い出として残っています。
昔はそこまで意識は無かったのですが、たまたま大学の後輩に連れられて初めて参加した靖国参拝で
その頃から、九段下の駅を出る時に
杖をついて、猛暑の中で相当きつそうな感じがするにも関わらず高齢の方がたくさん来られるのを見ていて
心に響く想いをいつも感じながら
駅を出ると、ワーワー騒いでいるのも少なくなり
静かに参拝出来る様になった事がいいなと。
小野田さん
素晴らしい方でした。
この人程、世の中1人で生きられない中、本当に1人で生きてきた時期が何十年あった方で
不条理をぶつけてもいいのに、それをせず
50前後で帰国し、その後ブラジルに移住して牧場経営で成功
そんなルパング島時代以上に、個人的にはその年齢でブラジル移住して0から開拓していく方が
凄いなと。自分が50になった時に、異国の地でゼロから開拓できるか?と思うとそこまでの心境にはまだまだなれずで
その後も、金属バット事件が川崎で起きて
日本の教育の為にという事で自然塾を開かれて開催していました。
振り返ると、不条理な生活を30年近く過ごしたから国に対して賠償を!というよりも気持ち、魂ありきの在り方の部分を第1にされていた方だったと思います。国がだらしなければ自らの生きる姿勢で示すという感じで開拓しにいき、教育がダメだと思ったら、自分のできる範囲で自然塾を開催し自立する事、助け合う事を学びあう。そんな個人で出来る小さい範囲でも与える影響は凄く大きかったと思っていますと共に戦時中に壮絶な経験をされた方々の話を聞けた人間として学んで活かすべきこと、特に心の部分において大切にしたい、興味がある方がいればちゃんと話せる人間になりたいと思うところです。
靖国に関連するところでは、素敵なご縁に恵まれ、知覧での特攻隊を経験された北島さんのお話をお伺いできたことで
素敵なご縁に恵まれたのは知覧での特攻隊を経験された北島さんのお話をお伺いできたことで
偉そうながらですが、何十年たった後でも直接体験談を聞けた人間として
話しが出来る事って貴重なのではないか!?と。大正、昭和初期産まれの方が
80代、90代となる中で最初で最後に聞けた貴重な機会だったのかもしれないなと。
特に、若い世代に伝えたい!という事で仰られていたのは自分が発したメッセージを語り伝えて欲しいというのが、ご本人+ご本人の後ろにいる英霊の方々の想いも含めてと受け止めて、そんな場にいれた事を感謝しながら、次の世代にというのは自分たちの番と思う様にしております。
ネット、SNSで見て感じる事もありますが、その後の記憶までは残っていない事が殆どで、ただ直接本人から話を聞いた強烈な印象はいつまでも記憶の中に残り続けていて、事細かい詳細も動画で撮影していたのでご紹介いたします。
知覧から飛び立つ帝国海軍特攻隊の直掩機(直接援護機)を務めた戦闘機搭乗員の方で
鹿児島の知覧飛行場から、重たい250kg爆弾を腹にくくりつけた飛行機が、沖縄の沖合に群がる米艦隊に向かって、何度も何度も特攻攻撃を行った。(ただし、片道の燃料しか積んで特攻に行っていたというのは嘘でそんな非道な事が出来る整備士はいなかったとも語っておられました。)
北島さん自身も追撃され、海の上に4時間彷徨って助けられた経験があり、その時は
何度も眠くなるのと闘いながら、眠くなる度に北島さんのお母さんが呼びかけている声が聞こえて、
目を覚まして⇒眠くなり⇒目を覚ましての中で助けられたという事です。
B―24を撃墜させるために、私は飛び立ちました。そして、私と仲間たちは、いくらかの戦闘機を撃墜させました。その時に一緒に飛び立った同期の仲間がいました。その仲間の飛行機が着陸する寸前、無防備になっているところを、敵のP38戦闘機に狙われ、
私の目の前で落とされてしまいました。
仲間は墜落する飛行機と共に、この世を去りました。私は、護衛できませんでした。
仲間を殺してしまいました。
戦争が終わり、幸か不幸か私は生き残りました。
いくらか経った後、家内を連れて、戦死した同期の仲間の実家を訪ね、九州へ行きました。「よく来てくれた・・・
私の一番大事な息子を殺しておいて、 お前さんが、こうしてのこのこと帰ってきて、 何しに来たんだ! 言ってみろ!」
話すたびに胸が強烈に痛くなる出来事とおっしゃって頂きましたが、
「彼らが生きていれば、今の日本はもっと良くなっていた。心底そう思っている」
自責の念から、会社を定年するまで体験は誰にも語ってこなかったという事ですが、現在は後世に対し、若い世代の方に経験談を伝えていく事をされています。
また、北島さんは
相花信夫少尉の遺書を受け取り、継母に対して宛てた遺書の話をお伺いする中で、涙なしには語れない素晴らしい話であると。
義理のお母さんに対して、今まで「お母さん」と呼べなかったが、人生の最期に遺書で充てて書いた内容の最期に義理のお母さんに対して「お母さん」と3度書かれており、それを北島さんが実際に義理のお母さんにお渡しした際に、涙が止まらなかったとの事です。
相花信夫 少尉
陸軍特攻第77振武隊
昭和20年5月4日 特攻戦死 18歳
母を慕いて
母上様御元気ですか
永い間本当に有難うございました
我六歳の時より育て下されし母
継母とは言え世の此の種の母にある如き
不祥事は一度たりとてなく
慈しみ育て下されし母
有難い母 尊い母
俺は幸福であった
ついに最後迄「お母さん」と呼ばざりし俺
幾度か思い切って呼ばんとしたが
何と意志薄弱な俺だったろう
母上お許し下さい
さぞ淋しかったでしょう
今こそ大声で呼ばして頂きます
お母さん お母さん お母さんと
「片道の燃料というのは絶対に嘘」これは強く仰られていた言葉
「心底教育をどの様にしていくかを若い人達にやっていただきたい。」
ここもすごくつよく仰られていて
政治も経済も大事だけど、教育が一番大事だと思っていて
「彼らが生きていれば、今の日本はもっと良くなっていた。心底そう思っている」の言葉が単なる教育制度ではなく人として、利他の精神を持ち家族を思い、それが広がって地域、社会、国という形で場所や環境は違えど思う心は利他の精神をみんなが持っていたのかなと思われ、だからそういう言葉が北島さんから出てくるのかなと思います。